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麻生元総理が「2000年にわたり同じ民族が、同じ言語で、同じ一つの王朝を保ち続けているのは日本しかない」と発言、その後謝罪

麻生太郎副総理兼財務相は13日、地元・福岡県飯塚市で開いた国政報告会で、「2000年にわたって同じ民族が、同じ言語で、同じ一つの王朝を保ち続けている国など世界中に日本しかない」と述べた。「アイヌ民族支援法」はアイヌを「先住民族」としており、日本が単一民族国家と受け取られかねない発言は批判を呼ぶ可能性がある。

 

毎日新聞  

 

 

麻生太郎副総理兼財務相は14日の閣議後記者会見で、「日本は2000年にわたって同じ民族、一つの王朝が続いている」などとする自らの発言について「誤解が生じているなら、おわびの上、訂正する」と述べた。

 

毎日新聞  

 

なお、麻生氏が総理を務めていた2008年、当時国土交通大臣だった中山成彬氏が「日本は随分内向きな単一民族」などと発言し、後に謝罪、撤回に追い込まれ、これらの問題発言により辞任している。

 

 

単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜

単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜

  • 作者:小熊 英二
  • 出版社/メーカー: 新曜社
  • 発売日: 1995/07/01
  • メディア: ハードカバー
 

れいわ新選組と山本太郎氏論・ポピュリズムとリアリズムの狭間で

2019年の参院選が終わった。
大きなニュースのない選挙の中、れいわ新選組が2議席を獲得したことが話題を呼んだ。

本稿では、山本太郎氏の6年間の議会活動を振り返るとともに、一体れいわ新選組、あるいは山本太郎氏が何を目指しているのかを考えたい。

 

山本太郎氏は、いつ消費税をメインテーマとするようになったのか?

山本太郎氏の政治活動は脱原発運動から始まった。これは周知の事実だろう。

しかし、今回の選挙に置いて「脱原発」は、れいわ新選組のメインテーマとして語られなかった。

もっぱら話していたのは消費税のことである。

 

もちろん、原発即時停止、は政策の中には入っているが、消費税や奨学金の問題などから比べるとだいぶ下にある。

それでは、山本太郎氏はいつ、消費税をメインテーマにするようになったのか。

 

例えば、「新党ひとりひとり」時代には、このように発言している。

安倍総理は、消費税を引き上げて税負担を求めていく以上、政治家も身を切る決意を示さなければならないということから国会議員の歳費二割削減も決まっていったというような趣旨のことをおっしゃっていますよね。平成十九年四月二十四日、第一次安倍内閣で閣議決定された「公務員制度改革について」という文書には、「公務員は、まず、国民と国家の繁栄のために、高い気概、使命感及び倫理観を持った、国民から信頼される人物である必要がある」と書いてあります。

稲田大臣、私、国会議員の歳費二割削減と同時に、国会議員と同等の給与を受けている幹部職員の給与二割削減、実現するべきじゃないのかなと思うんですけれども、大臣の御見解、お聞かせ願えますか。

 

平成26年4月11日 参議院内閣委員会

ここではむしろ維新の会のような、身を切る改革を主張されている、とも読める。

一方、生活の党時代になると、このように主張は変わる。

消費税をPDCAで評価した場合、私は、一旦消費税を五%に戻して、先々は廃止していく、財源は所得税の累進性を強めて資産課税を強化していくということで賄えると考えます。中小企業・小規模事業者の現状に大変お詳しい先生に、消費税を一旦五%に戻すというプラン、御意見を伺いたいと思います

 

平成27年03月23日 参議院行政監視委員会

実は、山本太郎氏の政治団体、「新党ひとりひとり」では、当初このような基本政策が書かれていた(2019年現在、この内容はれいわ新選組の基本政策に合わせたものとなっている)。

裕福な者も貧しい者も同じ税率? あり得ません。反対!だけでは呪文と同じ。まずは生活必需品非課税を勝ちとります。

基本政策 | 新党 ひとりひとり

この文言を見ても、必ずしも山本太郎氏の消費税に対する観点は、固まっていたとは言えないだろう。

そして、生活の党時代から少しずつ、メインテーマをシフトしてきたのだ。

それは、時代の空気を感じる山本氏の優れた能力によるものではないだろうか。

 

山本太郎氏は当初反原発運動家として政治キャリアをスタートし、少しずつその政策を、消費税などの経済政策にシフトさせてきた、とわかる。

 

先日のインタビューで、山本太郎氏はこう答えている。

選挙戦で掲げた「原発即時禁止」については「そこに強い打ち出しを持ったら、多分、野党全体で固まって戦うことが難しい」と指摘。「電力系(の支持層)の力を借りながら議席を確保している人たちもいる」とも述べ、野党共闘の条件とすることには慎重な姿勢を示した。

山本太郎氏 次期衆院選の野党共闘、消費税5%は絶対条件 - 毎日新聞

 

しかし、かつてはここまで強く発言していたのだ。

枝野さん、細野さん。この国のすべての人を被曝させた民主党は戦犯です。首狩り族の一人として僕は行く必要がある。野田さんもそうです。ケジメをつけに行ってやろう。

田中龍作ジャーナル | 山本太郎氏出馬 「枝野・細野・野田は戦犯、僕は首狩り族になる」

 

日本の反原発運動の旗手として当選した候補が、その6年間の議会活動の中で打ち出す政策のウェイトを大きく変えたことは、冷静に評論されなければならないことだろう。

 

「全部のせ」れいわ新選組の政策

れいわ新選組を全く新しい政治のムーブメントだと捉える人がいるが、私はこのような見方は短絡的ではないか、と考えている。

れいわ新選組の政策は、日本のいわゆる「第三極」の政策、あるいは民主政権後の野党全般を概ね引き継いでいるからだ。

 

この点について語る前に、そもそも日本の左派、日本の野党の欧米と比べてのねじれを指摘しておきたい。

一般に、左派は大きな政府を望み、右派は小さな政府を施行する。これが世界的にはスタンダードだ。

左派にはいわゆる社民主義者がいて、右派には自由主義者がいる。昨今既存の枠組みに縛られない政党が出てきたり、左派の中でもMMTなど減税論を唱える政治家もいるが、基本はこうだ。

(余談だが、よく日本の左派は緊縮でグローバルから見ると異質、というような意見があるが、労働党のマニフェストでも普通に政府赤字を5年以内にゼロにするという公約があったりする。政府を信頼せず市場に任せる右派に比べ、左派は政府を信頼し政府の機能を活かそうとするので、健全な財政基盤は必要なのだ)

 

しかし、日本において、社民主義は江田三郎の失脚とともに教条主義化した日本社会党とともに退潮し、新自由主義が台頭した。

その後、平成維新の会・新進党・民主党・みんなの党・日本維新の会など様々な政党や政治集団が現れたが、多くが「増税なき景気回復(あるいは減税による景気刺激)と、社会保障の両立」を党の公約としてきた。

 

例えば、みんなの党の政策にはこうある。

世界中を見渡しても、デフレ下で増税をしている国はありません。みんなの党は、以下の経済成長戦略や物価安定目標の策定等により、10年間で所得を5割アップさせることを目標に掲げます。結果として、今よりもはるかに実質経済規模が小さかった1990年当時の約60兆円を超える国税収入も得ることによる財政再建も目指します

 

れいわ新選組の政策にはこうある。

物価の強制的な引上げ、消費税をゼロに。初年度、物価が5%以上下がり、実質賃金は上昇、景気回復へ。参議院調査情報担当室の試算では、消費税ゼロにした6年後には、1人あたり賃金が44万円アップします

政策 | れいわ新選組

 

この2つの根底に「増税なき景気回復」とでも呼ぶべき考えが流れていることはわかるだろうか。

この考え方は、(特定の人間が党首になった時期の民主党を除けば)日本の野党の基本的スタンスである。

税や財源は議論せず、財源は埋蔵金であったり、時に「日本は破綻しない」という学説に基づいた新たな赤字国債であったりするわけだ。

 

このような点を含め、消費税廃止が果たして左派的な政策なのか、疑問が残る。

私は、れいわ新選組の政策は、右派も左派も喜ぶ、過去の野党のパッチワーク的な「全部のせ」的政策であると感じている

国土強靭化も、最低賃金上昇も、直接給付も、戸別所得補償制度も、消費税廃止もだいたい入っている。要は、あらゆる分野に政府支出を増やします、という政策だ。

 

しかし、仮にインフレ目標達成まで財政再建を先送りするにせよ、国債が無限には発行できないことは自明だ。

しかも、このような「全部乗せ」の公約である。消費減税だけではなく、様々な政策を合わせると相当な額の新規国債が必要になる。

パッチワークの結果、れいわ新選組の政策は実現性が低いもの、あるいは財源論を意図的に省いたものになったと評価せざるを得ない。

支持者の方々も含め、このような点から目をそらしてはいけないのではないか。

 

インフレになるまでは国債で財政の大部分を賄うということは、インフレになった場合、様々な社会サービスが削られ、大規模な増税が来るということである(インフレが絶対にこないと考えているなら別だが、論理的にはシンプルだ)

そのような社会システムに、我々は信頼を置けるのだろうか。私は疑問である。

 

国債は本来、将来産業への投資などに、景気刺激策とイノベーション施策として使うべきで、安定して財源を必要とする社会保障の分野で使うことは不適切ではないのだろうか。

 

日本の左派政党のねじれとは

れいわ新選組は決して政策的には新しいムーブメントではないと述べた。

 

日本の左派のねじれの原因の一つには、政策と選挙のねじれた関係がある。れいわ新選組の候補者だった安冨氏のブログを引用する。

私は、山本太郎のれいわ新選組は、いわゆる「政党」ではない、と結論した。ここで言う「政党」というのは、その目的を「綱領」という形で明文化し、何らかの「政策」を掲げて選挙を戦い、議席を獲得して綱領の実現を目指す、という共通の目的を持った集団のことである。

 実のところ、この定義にきちんと当てはまる政党は、日本共産党、しかないであろう。ほかの政党は、「選挙に当選して議員になりたい」と思う人が集まって、票を得られる方法をいろいろ考え、それを綱領や政策として出し、「政党」のフリをしている集団に過ぎない。それでも、フリをしないといけないので、候補者が党の掲げる政策に反対だと公言するわけにはいかないし、綱領と関係のない政治理念を掲げることにも大きな問題が生じる。その上、往々にして選挙のやり方も、支持母体となる組織が主導権を握り、候補者はそれに従って運動することになりがちである。

この安冨氏の考察に書かれたような前提のもと、伝統的に日本の左派は「減税と社会保障の両立」という実現困難な政策(時に財政再建も含む)を選挙のたびに掲げることになり、それらは細川政権・鳩山政権など左派政権実現のたびに破綻した。

細川政権は国民福祉税導入で瓦解し、民主党政権は最終的に消費増税に踏み切らざるを得なかった。

村山政権は、社会党が消費税廃止法案を提出していたにも関わらず、2%増税を決断せざるを得なかった。

 

民主党政権は所得税、法人税などの累進性強化を一定程度行い、更に行政改革で予算を捻出しようと考えたが、最終的には消費増税を含む一体改革を選んだ。

左派が大きな政府を選挙では語らず、増税無く社会保障の増大に対応しようとすることが、左派政権の安定性を損ねてきた。

 

では、なぜ日本の野党の政策は、そのような総花的、あるいは八方美人なものになってしまうのか。

私は、野党支持層、いや日本の有権者は、「票を取れるかどうか」で物事を判断する癖をつけてしまっているのではないか、と見ている。

このような考え方のもとでは、すべての政策は「集票力があるか」、もっというと「ウケがいいか」という視点でのみ判断され、更に有権者は「この政策ならウケがいいのに、なぜこのような政策を打ち出さないのか」というねじれた義憤を持つようになる。

 

支持者個人がその政策をどう捉えるかではなく、支持者が「どの政策なら勝てるのか」を基準に政策を考えるようになるのだ。

「野党は消費税減税でまとまれば選挙に勝てるのに、なぜやらないのか」というような言説は、このような思考をもとにして発せられる言葉ではないか。

 

私は、れいわ新選組の支持層には「選挙に勝てるような政策を打ち出している党を支持する」という層が一定程度存在すると見ている。

「この政策なら野党は勝てる」と考え、そこに高揚感を感じる人たちもいるのだろう。

 

しかし、そのような思考のもと選挙に勝った野党がその後なぜ政権を維持できなかったか、を考えると、このような思考はやはり、政策をもとに政党を選ぶという有権者のあり方とは大きくかけ離れたものではないか。

ここには、政党を選ぶと言いながら人を選ぶ、非拘束式の全国比例という制度のいびつさも透けて見える。

 

れいわ新選組は「左派」なのか

共産党の試算では、財政を様々な場所から捻出し、17.5兆を確保することになっているが、これは主に社会保障の財源確保などに使われることになっている。

24、財源提案(2019参院選・各分野の政策)│各分野の政策(2019年)│日本共産党の政策│日本共産党中央委員会

 

消費税は平成29年度では年間17兆円の税収だ。廃止のための財源確保は、共産党並みの徹底した課税強化を行ってようやく捻出できる額だ。

しかし、冷静に考えてみよう。年間17兆の財源があれば、社会保障の強化や再分配機能の強化は可能である。

このような政策ではなくあえて消費税廃止を目指す理由は何か。

 

「消費税ではなく法人税や所得税の累進性を強化するべき」という意見は一見正しく思える。

しかし、それは必ずしも消費税が不要な税であるということを意味しない。間接税が、広く様々な国で用いられている税率であることも確かだ。

所得税の累進性強化、法人税の課税強化は必要であるとしても、消費税を廃止したり減税したりするべきだ、という結論にはならない。

 

そもそも、日本の国民負担率は中程度、社会保障は極めて低く、更に社会保障の持続性には大きな疑念を持たれている。

OECDのレポートなどを見ても、再分配機能は先進国の中で極めて弱い。

明確な定義があるわけではございませんけれども、今厚労省から御答弁があった国際比較という意味でいえば、社会保障支出の対GDP比は、OECD諸国、データがある中で、三十五カ国中十五番目、やや真ん中ぐらい、それから国民負担率という意味でいうと、OECD三十六カ国中二十六位ということで、下から数えた方が早いという状況にございます。
 また、社会保障給付費、急速な高齢化を背景として増大していく中で、予算という意味で申し上げれば、その給付費の約半分弱を公費負担で賄っておりますけれども、それを賄うための十分な財源を確保できておらず、赤字国債の累積という形で後代にツケ回しを行っている状態にございます。
 こうしたことを考えると、我が国は中福祉・低負担の状態にあるというふうに考えておりまして、委員御指摘のように、社会保障の持続性を確保していくための不断の改革が必要というふうに財政当局としては考えているところでございます。

 

令和元年4月17日 衆議院法務委員会 宇波政府参考人

このような中、年間20兆程度必要な消費税廃止が本当の意味で国民の幸福に資するかは、十分に考える必要があるのではないか。

そもそも、消費増税賛成派は決して少なくはない。消費増税は関心の高いテーマではあるが、国民が最も苦しんでいるのは消費増税ではなく、上がらない賃金や年金生活への不安ではないか。

消費増税賛成45%、反対48%…読売世論調査 : 選挙・世論調査 : 読売新聞オンライン

 

このような点を踏まえても、れいわ新選組を左派的政党、あるいは左派的ムーブメントと評価することは難しい。

 

特定枠と選挙運動のあり方

今回、れいわ新選組は舩後靖彦氏、木村英子氏、二人の重度障碍者の候補を特定枠で擁立し、二人ともが比例枠で当選した。

れいわ2議員の国会内での介護費用、参議院が負担へ:朝日新聞デジタル

 

まず断っておきたいのは、二名の重度障碍者が参議院議員に当選されたことは日本の議会にとって素晴らしいことであり、参議院や、当然衆議院を含め議会は全面的にサポートするべきだ、というのが私のスタンスである。

 

その上で、申し上げたいことがある。

障碍者支援は、立派なテーマであり、選挙で問うべき大きなイシューだ。しかし、今回の選挙でその争点がどの程度語られていただろうか。

政見放送では、語られていた。控えめに言っても、非常に良い政見放送だったと思う。

 

しかし、今回の選挙、そしてれいわ新選組にとっての一丁目一番地は、消費減税だったことは明らかだろう。

WEBサイトを見ても。政策の一番上には消費税廃止が踊っていた。

自らが落選しても(おそらく落選するであろうことは理解していたはずだ)、お二人を国会に送り込みたいとした山本氏の姿勢は、評価したい。

 

しかし、ならばなぜ消費減税が政策の一番上に来るのだろう。

そこにもまた、政策と選挙の優先順位のねじれのを、どうしようもなく感じてしまう。

 

そもそも私は、社会保障機能の強化こそが、重度障碍者の方々にとっても行きやすい社会になると信じている。それは、税を嫌うことではなく、再分配や社会保障という税の機能を十分に活用することでしか実現できないはずだ。

だからこそ、消費税廃止と今回の特定枠の擁立に、一貫性を感じることができない。

 

れいわ新選組は一体どのような政党で、何を実現しようとしているのか、やはりその点が見えないからこそ、政策と選挙のねじれを感じるのだろう。

 

山本太郎氏の議会活動への誤解

山本太郎氏の議会活動をどう評価するかは、人によって異なるだろう。

しかし、一つ言えることは、山本氏はそもそも国会の制度や議会自体を必ずしも重んじていない、ということではないか。

 

(訂正)当初この章では2015年に成立した難病対策法案への対応について、山本氏が法案に賛成しているにも関わらず反対したかのような解釈をしていましたが、ご指摘を頂き再読したところ、法案で部分的には賛成できる点があるが、反対する点もあるというような内容でした。お詫びして訂正します。

 

先日の麻生太郎財務省問責決議案への欠席も意味不明である。議会活動の軽視も甚だしい。

スマートに戦って勝つなんて幻想でしかない。 
そんな余裕なままで政権奪取できるのはいつになるのだろうか? 
あまりにも気位の高い戦い方しかできない野党は野党のままだ。 

いつまで地獄のような状態をこの国に生きる人々に強いるのか? 

月曜には総理の問責という儀式が行われる。 
私はその儀式もパスする。 
本気で引きずり下ろす気がない戦いには与しない。 

国会に中指を立てている写真などからも、山本氏は「国会のルールに則っていては物事は解決できない」という印象を有権者に与えようとしているのではないか(あるいは自分がそう信じているのでは)、と疑念を抱く。

山本太郎「消費税を廃止しないとロスジェネ世代が死ぬ!」 | ニコニコニュース

 

更に遡るのならば、園遊会で天皇陛下を手紙を手渡す行為も同じである。

国会議員が、有権者より与えられた権能として、その良心に基づき一票を投ずることは義務である。これを放棄する議員を私は信任することはできない。

このようなことが受け入れられるのも、ひとえに議会活動そのものが、左右問わず無駄と捉えられている。

それだけ議会の信頼が落ちているのではないか、と推察するのだ。

 

れいわ新選組はポピュリズムか

山本太郎氏をポピュリズムと評することは、今の段階では適切ではない。

 

ご本人も語っている通り、山本太郎氏は、目的のために手段を選ばない政治家である、というのが私の結論だ。

それをどう評価するかは有権者次第だろう。

 

そして、支持者の一定層も、「手段を選ばないこと」を評価している。

可能な限り、どのような手段を使ってでも、総理大臣になるための最短ルートを通ってほしい、と願っているのではないか。

この前提にたてば、山本氏にとっては、国会も、れいわ新選組という政党も、手段にすぎない。

 

これが、おそらくある種の人にとっては「現実的」に見えるのではないか。

つまり、政策ではなく、手段の選ばなさに現実味を感じるのだ。

とにかく勝たなきゃ始まらない。選挙公約は選挙に勝つために作るものだ。

そんな身も蓋もない現実が、建前ばかりの政治家に疲れた有権者に評価され、それらをナマで打ち出すれいわ新選組に力を与えたのではないか。

 

同時に、山本太郎氏は、建前ではなく本音の人だ。

「政権を取るためならなんでもする」「総理になりたい」これは本音だろう。

同時に、「あなたを幸せにしたいんだ」というキャッチコピーに現れるように、弱者に向ける目も(いささかパターナリスティックな側面もあるとはいえ)本音なのだと思う。

あるいは、原発事故直後に感じた恐怖もまた、本音なのだろう。その率直な発言が評価され、彼を国会へと導いた。

しかし、その時本音であったことが、一年後本音とは限らない。興味関心は移り変わるのである。本音の人ということは、反一貫性の人ということでもある。

 

感情的な本音と手段の選ばなさ、これが現代的政治のリアリズムであり、れいわ新選組を押し上げたのではないか(私はこの点、大阪における維新の会の政治運動と共通するものを感じている)。

この文脈で考えれば、今回既成野党が票を減らしたことの原因も、見えてくるように思う。

 

しかし、リアリズム観点から読み解けるものが多くとも、山本太郎氏がどのような社会を目指すのか、何を理想とするのかは、実はよく見えてこない、

選挙に勝てる統一の主張として消費税廃止を主張しているのか、本当に心の底から消費税廃止により偶然の好景気が訪れ日本の諸問題が解決すると信じているのか、見えないのだ。

山本太郎氏だけではない。れいわ新選組は一体何を実現し、どのような国家を目指す政党なのか。これに簡潔に答えられる人はどの程度いるだろう。

そしてまた、議会軽視の姿勢が明らかな山本氏が本当にこの国の中枢についたとき、果たして健全な議会運営が行われるのかは大いに疑問が残る。

 

いずれにせよ、有権者が議会に目を向けなければ、議会は単なる票決のための場所となり、存在価値を失う。

れいわ新選組で当選された二人の新しい議員を含め、有権者が常に議会活動に興味を持ち、質疑が本当に質の高い、有権者の付託に答えるものであるか、監視することが重要だ。

政治家は監視され、チェックされるのが仕事である。

 

山本氏はTwitterで自らの取材発言が批判されると記者に責任転嫁するような態度が目立つ。

アエラの記事について | 山本太郎オフィシャルブログ「山本 太郎の小中高生に読んでもらいたいコト」Powered by Ameba

 

またメディア出演が意図的に妨害されている、というような主張を否定せず、一部煽り建てるようにしている。

メディアから、あるいは有権者からの批判を受け止められないのであれば、山本氏は公党の代表たる資格がないと言ってもいい。

 

また、一部選挙の不正があるかのような発言もされている。

不正がないわけないですよ。不正しかなかったんだから、今までの政治。公文書改ざんしたりとか、隠蔽したりとか、8年分のデータなくなったりとか、イラクの日報の問題とか、不正しかないじゃないかって話ですよ。そういう連中が、選挙の時に不正しないか? ありえないでしょ、それ。選挙以外は全部不正しますけど、選挙だけは真っ白です、なんてありえないってことですよ。当然、何かしらの不正はやっているだろうけれども、その、はっきりとしたファクト、決定的なものが掴めない限りはなかなかそれ追及難しいんですよ。

【動画&文字起こし全文】れいわ新選組街頭演説会 19.7.18 福島・福島駅東口 | れいわ新選組

 

山本太郎氏は当選以来、都合の悪い報道や事実を陰謀、読者の誤解、あるいは記者の力量不足と捉える傾向があるのではないか、と危惧している。

健全な批判を受け付けないのは、端的にとても危険だし、不正選挙が不可能なことなど、選挙実務に関わったことがある人間ならすぐにわかるはずだ。

 

山本氏は、あえて言うなら「反一貫性の政治家」である。その場で最適と思ったことを発言する。そこに過去も未来もない。

それを有権者も支持する。なぜなら常に「本気で戦っている」からだ。

つまり、発言の一貫性ではなく、姿勢の一貫性を見ているのである。妥協しない(と見えていること)に彼の支持の源泉があるのではないか。

 

しかしもはや、山本太郎氏は単なる一議員ではない。代表として政党要件を得た政党を率いるなら、過去の発言も含め検証されるのが当然だ。

健全な批判すら受け付けないポピュリズムになるか、あるいは健全な批判を受け入れ、強みにするリアリズムの道を行くか。今後の政治活動次第でないかと思う。

これまでアウトサイダーであった山本氏がメインストリームの政治家として総理を目指すならば、有権者もそれに応じて政治活動を注視すべきなのだ。

同性婚は違憲なのか?憲法24条の成立過程から読み解く、結婚と憲法の関係

(注)私はいかなる意味においても法曹関係者でも法律・憲法の専門家でもありません

「自分が(性的マイノリティ)の当事者であるということに気づくのは、多くの当事者にとって正直苦しいことなんです。当事者自身も同性愛嫌悪の感情を持っている場合があります。自分が人と違うと思った時に、それを受け入れるのに時間がかかります」

「それはなぜかというと、社会が認めていないから。だから自分が周りの人と違うと思った時に、多くの若い人たちが絶望を感じることがあります。『この社会でじぶんは生きていけるんだろうか』『自分はこの社会で排除されるのではないだろうか』『家族や友達から非難されるんじゃないか』。そういう思いを持つのです」

「法律ができることで、自分はこの社会で生きていていいんだ、と思えるようになると思います。そういった意味で非常に意義深いと思います」

 

同性婚を認める法案が、日本で初めて提出される。「今までなかったのがおかしい」(詳報) | ハフポスト

同性婚を認める民法改正案が提出された。上で引用したのは、提出者の尾辻議員の言葉だ。

同性婚自体に対しては様々な見解があるだろうし、家族観や宗教観などにも絡む問題であるから、ここで同性婚自体の是非を問うことはしない。

今回この記事で議論するのは、今回同性婚を認める民法改正に関して、「改憲しなければ不可能である」という論についてである。

「両性の合意」とは何か?

憲法学的解釈とは

 「両性の合意」は、字面から読めば当然、両方の性、となるだろう。実際、政府の憲法解釈は一貫して「想定していない」となっている。

人権救済弁護団によると、それぞれ非許容説・許容説・保証説と言った学説がある、とされる。

①非許容説 憲法24条に「両性の合意」とあることから、文理解釈上現行憲法では許されないとする。


②許容説 憲法24条に「両性の合意」とあっても、婚姻両当事者以外の合意は不要であるとの趣旨であり、また、憲法制定当時は同性婚に対しては無関心であり、時代の変化に伴い同性婚の課題が顕在化した以上、憲法24条によって同性婚制度の立法が禁じられてはおらず、憲法上許容されるとする。


③保障説 憲法13条、24条等に基づき積極的に同性婚が憲法上保障されるとする。

 

「同性」カップルの日本での婚姻について

いわゆる「通説」は、非許容説であるという意見がある一方、憲法学者の木村草太氏はこのように述べている。

たしかに24条には「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する」と書いてあります。しかし、この条文が同性婚を否定していると解釈する人は、ここで言う「婚姻」の定義を明確にしていません。その定義が同性婚を否定しているかどうか判断するために重要な要素であるにも関わらず、です。婚姻とは何を指すのかを明確にする必要があります。

24条で言う「婚姻」にもしも同性婚が含まれるとすると、「同性婚が両性の合意によって成立する」というおかしな条文になってしまいます。ですから「ここで言う婚姻は異性婚という意味しかない」と解釈せざるをえないのです。

つまり24条は「異性婚」は両性の合意のみに基づいて成立するという意味なのです。ここに解釈の余地はありません。そうである以上、同性婚について禁止した条文ではないということです。

 

『同性婚と国民の権利』憲法学者・木村草太さんは指摘する。「本当に困っていることを、きちんと言えばいい」 | ハフポスト

実際のところ、同性婚自体がまだまだ十分に論議されているとは言えない状況のようだ。

憲法24条はどのように決まったのか?

新憲法交付後の第一回国会では、このように語られている。

「婚姻は兩性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の權利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」と規定されてあります。大抵の人たちは、この條文は男尊女卑という封建的な遺物を清算し、封建的な思想を解消して、そうして夫婦同權に向つて女性の解放を定めたものと見ているようであります。

昭和22年08月08日 衆議院司法委員会 榊原千代衆院議員

当然ではあるが、このとき同性婚などという概念は影も形も存在しなかった。

平成に入って以降も、両性の合意は基本的に女性の権利保証と個人主義を記したものだと理解されている。

第二十四条は、婚姻が両性の合意だということが書いてある。一回だけ家族という言葉が出てくるのは、「離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」いわゆる徹底的な個人主義。家族というのはそれに準ずるものだというような考え方で書かれている。

平成12年10月26日 衆議院憲法調査会 鳩山邦夫議員 

 

同性婚という問題が持ち上がってくるのは、日本においてはずっとあとのことで、議事録に残る限り、この発言が初めてだと思われる。

同性愛行為が自己決定権のうちに入るかは難しい問題ですが、少なくとも同性婚に関して言いますと、これは議論がありますが、日本国憲法の場合には二十四条で法律上の婚姻が尊重されるべきであるという規定があって、そこには婚姻は両性の合意に基づくということになっていますので、通常の解釈は、法律上の結婚は男性と女性と、両性というのはそういう意味だと。

平成16年11月17日 参議院憲法調査会 赤坂正浩参考人 

つまり、憲法制定当時、この条文が同性婚を禁ずるために作られた、あるいは異性婚のみを婚姻と認めるために作られたとは当然考えられず、女性の権利保証を目的としていると考えるべきだ。

政府見解は「想定されていない」

それでは、政府の憲法解釈はどのようになっているのだろう。これは、先日行われた尾辻議員と山下法務大臣のやり取りだ。

尾辻かな子議員(立憲民主党)

今度は憲法との関係を聞いていきますけれども、憲法二十四条は、同性婚についてどのように、合憲なのか違憲なのか、同性婚を禁じているのかどうか、この解釈は今はどうなっているでしょうか。

 

山下貴司法務大臣(自由民主党)

お答えいたします。
憲法第二十四条第一項は、婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立すると定めておりまして、当事者双方の性別が同一である婚姻の成立を認めることは想定されていないものと考えられます。

 

尾辻かな子議員(立憲民主党)

想定されていないというのは、禁じているのか禁じていないのかということについてお答えください。

 

山下貴司法務大臣(自由民主党)

私ども法務省として申し上げられますのは、先ほども申し上げたとおり、憲法二十四条第一項は、婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立すると文言上定めており、当事者双方の性別が同一である婚姻の成立を認めることは想定されていないものと考えられるということでございます。

 

尾辻かな子議員(立憲民主党)

いや、同じ答えなのでわからないんですね。だから、想定されていないというのは、違憲で、禁じられているのかということについて、イエスかノーでお答えください。

 

山下貴司法務大臣(自由民主党)

私ども所管省庁として申し上げられますのは、この文言、両性の合意のみに基づいて成立すると定めておりますので、当事者双方の性別が同一である婚姻の成立を認めることは想定されていないものと考えられるということでございます。

 

尾辻かな子議員(立憲民主党)

だから、想定されていないというのは、本当に禁じているか禁じていないかということをお答えいただけないということで、これは非常に不誠実な態度だと私は思います。

平成31年02月14日 衆議院予算委員会

このように「想定されていない」と答えている一方で、「禁じられているか」については明確に答弁していない。

少なくとも、政府の公式見解として、24条が民法上での同性婚成立を禁じていると解している、と発言しているわけではない。

よくわからない答弁、という見方もできるが、一方で将来的な立法の余地を残したとも言えるだろう。

 

平成30年の質問主意書でも、「極めて慎重な検討を要する」としながらも、将来的な同性婚の成立については一定の含みをもたせている、とも取れる回答をしている。

憲法第二十四条第一項は、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」すると規定しており、当事者双方の性別が同一である婚姻(以下「同性婚」という。)の成立を認めることは想定されていない。


いずれにしても、同性婚を認めるべきか否かは、我が国の家族の在り方の根幹に関わる問題であり、極めて慎重な検討を要するものと考えており、「同性婚に必要な法制度の整備を行わないことは不作為ではないか」との御指摘は当たらない。

衆議院議員逢坂誠二君提出日本国憲法下での同性婚に関する質問に対する答弁書

同性婚は憲法に反しているのか?

さて、少なくとも政府見解で、同性婚が違憲であるという憲法解釈は今の所取られていないことがおわかりいただけたのではないか。

しかし、同性婚は現状の憲法に反しているので改憲が必要だという意見もある。例えば松浦大悟・元参院議員などだ(ツイートを引用しようと思ったが、なぜかブロックされていたので代わりに記事を貼っておく)。

abematimes.com

解釈改憲での同性婚には反対だ。立憲民主党の山尾志桜里議員や批評家の東浩紀さん、学者の中島岳志さんもそうおっしゃっている。なぜ解釈改憲がダメなのかといえば、どう考えても憲法24条が同性婚を想定していない、つまり国民の意思が反映されていないからだ。 

 

同性婚にかかわる法案提出は、「解釈改憲だ」という批判が一部からされているようだ(政府が見解を明確にしていないものについて法案を提出することも「改憲」というのも不思議な話だと思うが) 。これは正しい批判なのだろうか。

そもそも、「違憲」とはなにか?

憲法24条において、同性婚が想定されていないのは明白である。問題は、民法で同性婚を成立させることが違憲かどうか、という点だ。

同性婚が違憲であるとは、どういう状態だろうか。例えば、憲法36条では残虐な刑罰を禁じている。

日本国憲法 第三十六条

公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる

ところが、同性婚は前記の通り、憲法で規定されていない。つまり、明示的に禁じているわけではない。

また、先程引用した制定の経緯等を考えても、条文が明示的に同性婚を禁じたものではないことは明らかだ。

 

つまり、現行憲法化で想定されていない同性婚は違憲である、という解釈を取るには、民法上認められる婚姻自体が、憲法を根拠に成立している。つまり、憲法において想定されていない婚姻は違憲であると解釈する他ないのではないだろうか。

婚姻は憲法を根拠にして成立しているのか?

とすると、「結婚とは何によって認められているのか?」という疑問が湧くのではないだろうか。例えば、仮に憲法24条が存在しなかったとする。その場合、民法で婚姻を規定することは違憲になるのだろうか。

象徴天皇の地位は、憲法1条を根拠にしていると考えるのが自然だ。憲法1条や2条なしに、皇室典範や民法のみで象徴天皇が存在することは難しい、と考えるのが自然だろう。これと同じように、様々な法律は憲法を規定にしている。

婚姻とは、これと同じように、憲法を根拠に成立しているのだろうか?

 

憲法24条とは、日本国憲法の元で新しく成立した条文であり、明治憲法には存在しない条文だ。ところが、新憲法以前から、民法で婚姻は規定されていた。

つまり、婚姻というもの自体はそもそも、憲法(24条)を根拠にして成立しているのではない、と解釈するのが自然ではないだろうか。

 

そもそも、24条において婚姻は何か、ということは規定されていない。つまり、社会通念上すでに存在する婚姻の成立に関して、外部からの干渉を受けることなく、個人が決定するべきだ、理念を書いた条文だろう。人権と同じようなものだ。

憲法24条が仮に存在しなかった場合に日本国民は結婚できないのか。おそらく、そうではないはずだ。

 

とすれば、仮に憲法24条において同性婚が想定されていなかったとしても、憲法24条が明示的に同性婚を禁じていない限り、同性婚を民法上認めることは合憲であると考えるのが自然ではないか。

禁じていると考える根拠はどこにあるのか?

同性婚を明示的に禁じているわけでもなく、また婚姻そのものが憲法を根拠に成立しているわけではないとすると、現行憲法下で同性婚が違憲であると考える根拠は一体どこにあるのだろう。

究極的に下敷きにあるのは、「婚姻とは異性のものであり、同性婚は婚姻とは呼ぶことはできない」という前提ではないか。

 

とすると、これはやはり質問主意書への回答の通り「家族のあり方」に関わる問題であり、違憲/合憲という視点から論評すべき問題ではないのではないか、と考えるのだ。

 

本記事を書くに当たり、憲法24条が果たした意味を改めて深く問い直されることになった。憲法上でこのように、あえて「合意のみ」と書かれた意味は大きかったのだ。

戦前、家制度と家督制度に縛られた女性が、いかに低い地位であったのか。そしてそれが、家督の廃止と結婚の自由によって、いかに解放されていったのか。そこに憲法24条は、大きな意味を果たしていた。

戦前は、子供ができない限り結婚させないというような悪習が横行していたようだ。女性は、自分の意志で結婚することすらできなかった。そして、舅・姑が気に入らなければすぐに追い返される。まさに「女三界に家なし」の世界である。

 

そのような人間の権利保証を高らかに歌った条文が、70年の時を経て、愛し合う同性カップルのの権利を阻むかのように引用されているのを知るにつけ、私は実に暗い気持ちになるのである。

 

国会において安楽死・尊厳死はいかに語られているか -「落合・古市対談」を踏まえて

古市 (前略)安楽死の話もそう。2010年の朝日新聞による世論調査では、日本人の7割は安楽死に賛成している。それにもかかわらず、政治家や官僚は安楽死の話をしたがらない。

落合 安楽死の話をすると、高齢者の票を失うと思ってるんですかね?

先日話題になった対談だ。この対談については、様々な論点で批判・言及されているが、この記事ではそれについては述べない。

今回は、尊厳死(安楽死)が国会においていかに語られていたのかについて述べる。

 

朝日の調査について

まず、朝日新聞の調査について言及されている点について確認しておきたい。残念ながらきちんとした出典がなかったので、それを引用した論文を孫引きすることになる。

論文にも述べられている通り、延命拒否は8割超、安楽死についての賛成は7割超であるが、実は、「自分の死に方について考えていない」人が74%もいる。

つまり、この回答は、自らの死のイメージを具体的にした上で述べられた回答だけではなく、一般常識として「無駄に延命するだけなら無駄」という周囲への配慮を踏まえた回答も含まれることが想定される。

 

自分自身が「寝たきりになったら死ぬのは無駄」だと健康なときに考えるのはたやすい。しかし、いざ自分がその立場になってみたときに、果たして同じような決断を下せるか。私には自信がない。

  

尊厳死と安楽死

日本は安楽死は、比較的早くから行われている国家である。この点については、尊厳死を政策的なテーマに上げている津村啓介議員と山下貴司法務大臣の質疑(衆議院法務委員会 平成30年11月13日)から読み解いていこう。 

この質疑については、実際に議事録を読むことをおすすめしたい。

津村啓介衆院議員

 尊厳死、安楽死の法制化、終身刑の導入、そして外国人労働者問題、本日は、以上三つのテーマについて質問いたします。

大臣、まず冒頭伺いますが、尊厳死と安楽死、前者を消極的安楽死、後者を積極的安楽死という言い方もございますけれども、この二つはどう違いますでしょうか。事前の質問通告二問目の肝の部分ですので、ちょっと縮めた質問にしておりますけれども、短くお答えください。

 

山下貴司法務大臣

まず、安楽死というものの中には、例えば積極的安楽死というものがございます。これにつきましては、一般的に、苦痛の甚だしい死期の迫った方について、その苦痛を軽減又は除去するために死期を早める措置をとる場合をいうものというふうに理解しております。
 そして、安楽死の中の消極的安楽死というものがございますが、これにつきましては、例えば輸血であるとか強心剤の注射を続ければ、延命、命を延ばすことはできる、ただ、これは患者の苦痛の時間を延ばすだけであると考えてこれをやめる場合のように、死期が迫っていて、しかも耐えがたい苦痛のある患者について、患者や近親者の意思で積極的な治療を施すのをやめる、こういったような場合が消極的安楽死だと言われていると理解しております。

 

津村啓介衆院議員 

簡潔な御答弁、ありがとうございます。

安楽死、尊厳死をめぐりましては、このほかにも、自殺幇助の問題、あるいは医療現場で行われている緩和的鎮静、セデーションのテーマなど、幾つかございますけれども、本日は、焦点を絞る意味で、今大臣が二つに分けていただきました消極的安楽死と積極的安楽死、そのうちの消極的安楽死に当たります尊厳死に絞って議論を進めたいというふうに思います。

大臣、現在、我が国において、今大臣がお述べになりました延命治療の中止、いわゆる尊厳死は法律で認められていますか。

 

山下貴司法務大臣

実は、尊厳死という言葉の定義も、必ずしも消極的な安楽死と一致しているかという問題がございまして、例えば、尊厳死につきましては、本人の生前の意思等に基づき、生命維持装置によるほかの延命の道がない場合に、施さないか、取りやめて尊厳に満ちた自然死につかせるものというふうに理解をされております。

ただ、延命の道がない場合にこれを施さないということが、要は不作為に基づくその死期を早める行為になるということになるのであれば、これはさまざまな、同意殺人であるとか、あるいは例えば自殺関与であるとかということの構成要件に当たり得る可能性はあるということで、慎重な検討が必要であるというふうに考えております。 

この答弁で分かる通り、尊厳死と安楽死というのは違う概念だ。一般的に、尊厳死というのは自らの意思で行われるものであるが、安楽死はより広範な物を含む。

 

津村啓介衆院議員

日本では、一九七〇年代、世界の潮流にほぼ平仄を合わせるように、安楽死あるいは尊厳死の議論がスタートをしております。

九一年の東海大学の事件、九六年、九八年と、安楽死あるいは尊厳死をめぐる医療現場での幾つかの事件がございまして、残念ながら、その後、この議論はタブー視をされるようになっております。

厚労省が二〇〇六年の富山県での事件をきっかけに動きをしまして、終末期医療の決定プロセスに関するガイドラインを作成、〇七年のことであります。ここに書いてありますように、消極的安楽死については容認の方針ということで一般的には理解をされているところでございます。

 

ただ、幾つか問題点がございます。

確かに、この二〇〇七年の厚労省のガイドラインが策定されて以降、延命治療の中止によって医師が刑事責任を問われた事例は起きていません。

しかしながら、このガイドラインの中身が、判断の手順を示すという体裁になっておりまして、刑事免責の要件が必ずしも明確ではない。

ここで指す「東海大学の事件」とは、家族の希望により薬剤によって患者をしに至らしめた大学助手が殺人罪で起訴された「東海大学安楽死事件」のことを指す。

 

患者本人の意思確認がなかったとして、被告人は有罪となった。判決では、

  • 患者が耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいること
  • 患者は死が避けられず、その死期が迫っていること
  • 患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くしほかに代替手段がないこと
  • 生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること

の4つが「積極的安楽死として許容されるための4要件」として示され、以降もこれが違法性阻却のための判例として用いられている。

 

尊厳死という場合、患者自らが安楽死を執り行うだけではなく、意識のない患者を事前の同意に基づいて死に至らしめるケースも想定される。いずれにせよ、本人の同意が極めて重要だ。

一方、安楽死は、本人の意志確認がないまま、家族の同意によっても延命を中止するケースも含む。

この場合、当然違法性阻却事由(殺人罪としての違法性がないと証明する理由)が必要であり、それを明確に立法化するためには、極めて長いプロセスが必要になることが、このやりとりでわかるのではないだろうか。

山下貴司法務大臣

尊厳死につきましては、これが法的に認められるかどうかを含め、医学あるいは道徳、宗教、倫理観等々、深く密接にかかわる本当に難しい問題でございます。刑事責任の存否という刑事法の側面だけを取り上げて一面的に論ずるということは適当ではないのではないか。その意味で、幅広い観点から議論され、広く国民のコンセンサスを得るべきであるというふうに考えております。

山下法務大臣が言う通り、「人がいかに死ぬべきか」というのは、決して簡単に論じられる話ではない。

法制化までにはかなり高いハードルがある。次はこれを見ていく。

 

尊厳死の法制化に向けて

実は、「尊厳死法制化を考える議員連盟」という議連は存在し、すでに法案の骨子は出来上がっている。

尊厳死法制化を考える議員連盟

終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案(仮称)

(趣旨)

この法律は、終末期に係る判定、患者の意思に基づく延命措置の中止等及びこれに係る免責等に関し必要な事項を定めるものとする。

 

(基本的理念)

終末期の医療は、延命措置を行うか否かに関する患者の意思を十分に尊重し、医師、薬剤師、看護師その他の医療の担い手と患者及びその家族との信頼関係に基づいて行われなければならない。

終末期の医療に関する患者の意思決定は、任意にされたものでなければならない。

終末期にある全ての患者は、基本的人権を享有する個人としてその尊厳が重んぜられなければならない。

(後略)

 

議連の会長は国民民主党の増子輝彦参院議員で、超党派の議連であるようだ。

この法案に対して、日本弁護士連合会の宇都宮健児会長(当時)が、このような声明を出している。

少し長いが、重要なので、以下抜粋する。

患者には、十分な情報提供と分かりやすい説明を受け、理解した上で、自由な意思に基づき自己の受ける医療に同意し、選択し、拒否する権利(自己決定権)がある。

 

この権利が保障されるべきは、あらゆる医療の場面であり、もちろん、終末期の医療においても同様である。また、終末期の医療において患者が自己決定する事柄は、終末期の治療・介護の内容全てについてであり、決して本法律案が対象とする延命治療の不開始に限られない。特に、延命治療の中止、治療内容の変更、疼痛などの緩和医療なども極めて重要である。

 

疾患によって様々な状態である終末期においては、自ら意思決定できる患者も少なくないが、終末期も含めあらゆる医療の場面で、疾病などによって患者が自ら意思決定できないときにも、その自己決定権は、最大限保障されなければならない。しかるに、我が国には、この権利を定める法律がなく、現在もなお、十分に保障されてはいない。

 

本法律案が対象とする終末期の延命治療の不開始は、患者の生命を左右することにつながる非常に重大な決断であるところ、患者が、経済的負担や家族の介護の負担に配慮するためではなく、自己の人生観などに従って真に自由意思に基づいて決定できるためには、終末期における医療・介護・福祉体制が十分に整備されていることが必須であり、かつ、このような患者の意思決定をサポートする体制が不可欠である。しかしながら、現在もなお、いずれの体制も、極めて不十分である。

日本弁護士連合会:「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案(仮称)」に対する声明

国会において、反対意見も多数述べられている。

長妻昭議員の意見を引く。

私自身は、昨今の風潮で、終末期医療は金がかかるから余り延命治療をしない、延命治療をしないことがイコール尊厳ある死である、こういう短絡的な議論に非常に危機感を持っているわけで、そんな単純な話じゃない。

延命治療をすることを望んでいる御家族も本人もおられるわけでございまして、ですから、本当に日本は、今全く議論がないまま来ておりますけれども、死生学あるいは死生観、そしてQOD、これをよくよく考えて、本当に効果のある医療、国民の皆さんが幸せを感じられる医療、これをつくり上げていく。安易な安楽死や尊厳死の議論には絶対くみしてはならない

 

平成29年06月02日 衆議院厚生労働委員会

 

続いて、薬害エイズ事件の当事者である川田龍平議員。

安楽死や尊厳死といったこういった議論にもやっぱりつながる中に、本当にそれが、全ての人が平等に生きられる社会というものが前提としてそれがある上での議論なのか、それともやっぱり切捨てと言われるような、そういう命の切捨てにつながるような制度として安楽死や尊厳死というものが用いられてしまうのではないかという本当にその怖さ、恐怖、やっぱりそれは当事者だからこそ感じるものかもしれません。

 

平成28年11月08日 参議院厚生労働委員会 

 

なぜ国会議員は「安楽死の話をしたがらない」のか、という古市氏と落合氏の疑問に答えるとすれば、それは、生と死というのは人の究極の問題であり、決して医療費削減という文脈だけで語ることが出来る問題ではないからだ、といえる。

 

生者を選別するべきではない

尊厳死に関して最も重要なことは、いかに本人の自己決定が十全に行われているか、という点である。

尊厳死を望む人がいることは理解できる。苦痛に満ちた生を終わらせる選択肢が存在することは重要であると思う。

 

しかしながら、宇都宮氏が述べたとおり、尊厳死の選択が、社会的な圧力や財政的な問題などの要素によって左右されることがなく、真に自分自身の選択として行われることが最も重要なのだ。

とすると、古市氏のように「安楽死を認めれば医療費を削減できる」という発言は、この尊厳死を実現する環境を妨げるものであると言える。

 

落合氏の下記の発言についても、一言述べておきたい。

終末期医療の延命治療を保険適用外にするとある程度効果が出るかもしれない。たとえば、災害時のトリアージで、黒いタグをつけられると治療してもらえないでしょう。

それと同じように、あといくばくかで死んでしまうほど重度の段階になった人も同様に考える、治療をしてもらえない――というのはさすがに問題なので、コスト負担を上げればある程度解決するんじゃないか。延命治療をして欲しい人は自分でお金を払えばいいし、子供世代が延命を望むなら子供世代が払えばいい。今までもこういう議論はされてきましたよね。

トリアージはあくまで災害など、時間的リソースが限られた中で最大限の人命救助を行うためのメソッドであり、財政的に負担を重くすることで事実上延命治療を打ち切る、という議論とは全く別のものである。

前述の通り、災害時はあくまで「時間的リソースが限られているから」トリアージを行うのであって、平時とは全く異なる。

トリアージは、「誰を治療し、誰を治療しないか」を選ぶ立場に、自らを置くための道具ではない。

 

そもそも、トリアージがなぜ生まれたのかご存知だろうか。トリアージの祖として知られるのは、軍医としてナポレオン時代のフランスに従軍した、ドミニク・ジャン・ラレィである。

Dominique Jean Larrey - Wikipedia

ラレィは、階級や国籍に関係なく、負傷者の重症度と医療の必要性に応じて負傷者を治療し、負傷者をトリアージする規則を定めました。フランス軍とその同盟国の兵士と同じように、敵軍の兵士も扱われました。

 

そもそも、軍では階級が上の人間ほどすぐに治療されるのが一般的であった。それを、優先度で分けたのがラレィだったのだ。

かつて人種や階級を隔てなかったトリアージが、「お金があれば延命していい」などという主張に引用されるのは、皮肉としか言いようがないのではないか。 

 

薄皮一枚の地獄

少し本題から外れるが、平成20年の調査では、高齢者と現役世代の負担に対する考え方は、世代によってそれほど大きな違いがなかった。(出典 : 社会保障制度に関する特別世論調査 

人は年齢にかかわらず、「自分が社会のお荷物になりたくない」という気持ちを持っている。そのような気持ちに従って、延命治療を拒否する人もいるだろう。

しかし、「社会の役に立つものが生き残れる」という考えは、仮に本人がそう意図していないにせよ、優生学と薄皮一枚で隣り合っている。

災害時に関してはもうご納得いただいているわけだから、国がそう決めてしまえば実現できそうな気もするけれど。

そういったことも視野に入れないといけない程度に今、切羽つまっているのでは。今の政権は長期で強いしやれるとは思うけど。論理的には。

落合氏は、トリアージと比較した上でこうも述べているが、緊急搬送時に優先順位をどうつけるかということは納得しても、財政的理由で治療を受けられないことに納得する人間は少ないのではないか。

また、国家がその権力を利用して生者を選別する、という思想そのものが、優生学のバックボーンにある感覚と極めて近いことは指摘せざるを得ない。

 

「本人が死に方を選べる」制度としての尊厳死を実現するために最も必要なのは、社会のお荷物であろうと、いかに財政的に負担になろうと、本人が望むだけ生きられる社会である。

そしてそれは、この対談で語られたような延命を軽視する社内では、決して実現しないし、させてはならない。

 

両氏の対談における発言は、このような日本の安楽死・尊厳死・終末期医療の議論の積み重ねに関して、真摯に学んだうえで出てきたものとは言えないだろう。

むしろその発言は、「生活保護の不正受給」を追求した論調と同じ、徴税や予算の不公平感に基づいているように見える。

 

私は、両氏に悪意があってこのような対談になったとは思わない。批判されれば誤読だと言いたくなる気持ちもあるだろう。彼らは素朴に、財政のことについて考えただけである。

しかし、このように、深い知見も、関連した知識も、議論の積み重ねも、リサーチもなく、素朴に表出される共同体感覚、社会に不要なものを切り捨てていく感覚とでも呼ぶべきものが、尊厳死が実現される社会を妨げているのだ。

 

最後に、私がこの対談を見ていてふと思い出した、萩原朔太郎の「自殺の恐ろしさ」を引用する。

自殺そのものは恐ろしくない。自殺に就いて考へるのは、死の刹那の苦痛でなくして、死の決行された瞬時に於ける、取り返しのつかない悔恨である。今、高層建築の五階の窓から、自分は正に飛び下りようと用意して居る。遺書も既に書き、一切の準備は終つた。さあ! 目を閉ぢて、飛べ! そして自分は飛びおりた。最後の足が、遂に窓を離れて、身體が空中に投げ出された。

 

だがその時、足が窓から離れた一瞬時、不意に別の思想が浮び、電光のやうに閃めいた。その時始めて、自分ははつきり[#「はつきり」に傍点]と生活の意義を知つたのである。何たる愚事ぞ。決して、決して、自分は死を選ぶべきでなかつた。世界は明るく、前途は希望に輝やいて居る。斷じて自分は死にたくない。死にたくない。だがしかし、足は既に窓から離れ、身體は一直線に落下して居る。地下には固い鋪石。白いコンクリート。血に塗れた頭蓋骨! 避けられない決定!

 

この幻想の恐ろしさから、私はいつも白布のやうに蒼ざめてしまふ。何物も、何物も、決してこれより恐ろしい空想はない。しかもこんな事實が、實際に有り得ないといふことは無いだらう。既に死んでしまつた自殺者等が、再度もし生きて口を利いたら、おそらくこの實驗を語るであらう。彼等はすべて、墓場の中で悔恨してゐる幽靈である。百度も考へて恐ろしく、私は夢の中でさへ戰慄する。 

 

http://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/1790.html

若く健康な人間が、「延命治療は不要」と考えるのは、ある意味では当たり前かもしれない。

しかし、そのような空気が蔓延した世界で自らが安楽死を強制される社会は、私にとっては地獄に見えるのだ。

 

あらゆるものを奪われた人間に残されたたった一つのもの、それは与えられた運命に対して自分の態度を選ぶ自由、自分のあり方を決める自由である。

ヴィクトール・フランクル『夜と霧』

 

日本国の機能不全と労働者の軽視 ー 臨時国会における入管法改正の審議を振り返る

日本の未来とはなんだろう、と問われたら、どう答えるだろう。私はこのツイートこそが、日本の未来だと思う。

高村議員、金子議員、中曽根議員には共通点である。

同期当選であり、男性であり、父・祖父が政治家であり、慶應義塾大学出身であり(そのうち二人は幼稚舎から慶応で、東京育ち)、若手の議員のホープと目されている。

彼らはこれから引退までの30〜40年、日本の政界の中心で有り続けるだろう。これが「日本の未来」だ。

 

私は臨時国会の終盤に、このようなツイートを見て、一体日本という国家はどのような未来を描くのだろうと考えた。

国家の大きな物事が小さなインナーサークルで意思決定され、その経緯が見えなくなっている。そして、その反動として、国会はますます機能不全に陥っている。

そして、ある一部のインナーサークルを除く、多くのはたらく人の権利は、ますます軽視されるようになっている。

 

日本の現在は、なんだろう。臨時国会で何が起きたのか、改めて考えてみる。

入管法改正の何が問題だったのか

入館法改正には、多数の問題がある。その多くの問題は、そもそも煮詰まっていないという点だ。

bunshun.jp

そもそも入館法改正は、臨時国会の開幕前に突然持ち上がった話題だ。突如として、生煮えのまま政府から提出され、委員会での38時間の質疑を経て採決された。

 

現段階では、受け入れ上限すら決まっていない。ほとんど細部が白紙のまま、外国人を受け入れることだけが決まったのだ。

 安倍晋三首相は26日の衆参両院の予算委員会の集中審議で、外国人労働者の受け入れ拡大に向けた入管法改正案について、分野別の受け入れ人数の上限が法改正前には確定しない、という見通しを示した。

 政府は2019~23年度の受け入れ見込み人数を「最大34万5150人」と説明してきたが、山下貴司法相はこの数字が「各省が出した『素材』であり、上限ではない」と答弁。法案成立を急ぐ政府の準備不足が改めて露呈した。

本来、立法府というのは、法案を提出して、それを審議する場である。しかしながら、重要な部分は省令によって決める、というのでは、立法府が本来審議するべき事項は一体なんなのか、と思われても仕方がないだろう。

法案が審議入りする前の予算委員会では、山下法務大臣はこのように述べていた。

山下法務大臣 まず、受入れの規模に関しては、現在、農業、建設、宿泊、介護、造船など十四の業種から受入れの見込み数について精査をしているところでございます。それについて各省庁と作業中であり、できるだけ早く示せるよう鋭意作業を進めておりますが、近日中に法案を提出予定であり、法案の審議に資するよう鋭意作業を進めたいと考えております。

長妻議員 そうすると、法案の審議入りまでには業種の数を確定して受入れの規模も確定するということでよろしいんですね。

山下法務大臣 法案の審議に資するように鋭意作業を進めたいというふうに考えているということでございます。

長妻議員 これ、全然生煮えなんですよ。人数の規模もわからないということでありまして、当然、上限はつけるんでしょうね、上限、受入れ人数の。お答えいたします。

山下法務大臣 まず、上限というのは数値ということかということでございますけれども、今回は数値として上限を設けるということは考えておりません。

このように、そもそも受入数の上限すら決まらない制度運用が当初より予定されていたのだ。

 まず野党がただしているのが、受け入れ人数の見通しだ。2日の衆院予算委員会では国民民主党の奥野総一郎氏が「健康保険への影響もあり得る。どれぐらい増えるかあらかじめ示してほしい」と質問した。政府内には「初年度で4万人」という試算もあるが、山下貴司法相は「関係省庁と精査している。法案の審議に資するように説明したい」と述べるにとどめた。

 受け入れ業種や人数を改正案に明記せず、法成立後に省令で定めるという政府の姿勢にも批判が出ている。立憲民主党の長妻昭代表代行は記者団に「業種は増えるのか、来年4月以降のサポート支援はどうなのか、一切分からないがらんどうの法律だ」と指摘。参院の国民民主党の舟山康江国会対策委員長も2日の会見で、「基本が決まってからきちんと法案提出をして、中身を詰めていくのが当たり前だ」と述べた。

このような政府の姿勢は、そもそも立法府の存在意義をなくすものであり、今に始まったことではないけれども、本当に国会を有名無実にしようと考えているのだ、と思わざるを得ない。

入管法の審議時間は、IR実施法よりも更に短い17時間だ。安保法案の116時間はもとより、TPPの70時間、働き方改革関連法の39時間と比べても極めて短いことがわかる。

日本の国の形を根本的に変える法案が、このようななし崩し的な質疑の中で

  

「臭いものに蓋」の国会のあり方とは

今国会では、いわゆる技能実習制度に関して、実習生の様々な劣悪な環境が明らかになっていた。

 

更に問題となったのは、政府が技能実習生の個票を開示せず、また開示した後も、なぜかコピー不可という不可解な対応をしていたことだ。

このため、わざわざ現職の衆議院議員が手書きで個票をコピーすることを強いられた。

これらも含め、この間の政府の対応は、極めてクローズドで、透明性を欠いたものだったことは指摘をしておきたい。

 今、警察に言ったらいいよというやじが自民党からありました。しかし、こういう状況が放置されているんです、残念ながら。一人や二人じゃなくて、ここにそのような現状が詰まっているんです。
 これは個別の問題じゃなくて、構造的な、技能実習制度のはらむ問題なんです。そのような問題を放置して、警察に任せとかいろいろおっしゃいますけれども、その元締めは国会じゃないですか。しっかりと外国人の人権を守る最終責任は国会が持たないとだめなんじゃないですか。それが立法府の務めじゃないですか。そんな簡単に警察に言えと言って、警察に言っても状況がよくならないからこういう現状に今残念ながらなっているわけであります。
 話を続けますが……(発言する者あり)その方々を助けましょうとおっしゃったから、そうなんですよ、みんなで一緒に助けようじゃないですか、こういう困っている方々を。与党も野党も関係ありません。日本が好きで日本に来た労働者の方々を一緒に助けて、救おうじゃないですか。そういう話を私はしているんです。

 

平成30年11月27日 衆議院本会議 山井和則議員 

11月27日の衆院本会議、山下法務大臣解任決議案への賛成討論として、山井和則議員はこのように訴えた。議場にはたくさんのやじが飛んだ。

私も、原稿を読みながら、余りにも自民党の方々のやじのレベルの低さに本当にびっくり仰天をしております。採決しようとおっしゃっているのは与党なんですよね。今から審議に入るんじゃないんですよ。私たちは審議をやり直そうとしているんですからね。

山井議員は最後にこう締めくくっている。

国際的に奴隷労働とさえ批判されている制度は許されません。海外の有能な労働者に、日本はこのままでは選ばれません。

そんな差別を固定化し拡大する法案を法務大臣が推進するのは、辞任に値します。一番悪いのは、この法案を主導し、山下大臣を任命した安倍総理大臣であります。

日本を、世界一人を大切にする国にしようではありませんか。私たち、愛する国日本を、外国人から世界一愛される国にしようではありませんか。

 

賛成討論すらない国会

山井和則議員に野次を飛ばしていた自民党は、今回どのようにこの移民法を主張していたのか。本会議における平沢勝栄議員の賛成討論は下記になる。

技能実習生の労働環境などに一部問題があることは事実ですが、ほとんどの技能実習生は真摯に実習に取り組み、制度が適切に運用されているのが実態であります。このことは、ベトナムやインドネシアなど、多くの国から技能実習制度が高く評価されていることからもうかがえるところであります。
 一部の野党による、改正案審議の前提が崩れたなどとの指摘は、全く見当違いと言わざるを得ません。
 現下の深刻な人手不足への対策は待ったなしの状況にあり、法務委員会では、制度の必要性、受入れ業種とその見込み数、特定技能の要件、技能実習制度との関係などについて、参考人質疑も行いつつ、必要な審議を行ってきました。
 新たな制度に対する懸念についても質疑がなされ、今回の受入れによって日本人の雇用や治安に影響を与えないという点についても丁寧な説明が行われたところであります。

 

平成30年11月27日 衆議院本会議 平沢勝栄議員

このように、人手不足は地元にとって重要な議題である、という論拠を一貫して主張してきた。

これは、もちろんある意味では事実だろう。すでに日本という国は、日本籍を持たない外国出身者による労働力がなければ機能しない。

だからこそ、外国出身者に対しても、日本で働くにあたり、十分に人権が守られるべき制度運用がなされるべきなのではないか。

 

高橋まつりさんの死から一年が経ち、お母様が手記を公表された。しかし、状況はさらに悪化しているようにすら見える。

 

 

入管法改正は、日本人にとって無縁の法案ではない。はたらく人の人権をどう考えるか、という問題である。

働き方改革を含め、日本という国家がはたらく人を軽視し、労働者の人権を守らない国であることが、明らかになった一年ではないだろうか。

安倍総理の発言を AI に要約させたらこうなった

国会マニアにはお馴染みだろうが、安倍総理の答弁は、聞いていてもよくわからないが、議事録で読むとさらにわからないことで有名だ。

そもそも、最初の質問については、福島委員の質問だろう、こう思っておりますが、法律を潜脱していて、脱法的な疑いがあるわけですよ、そういう中でということで私に疑いをかけるようなことを言われたので、私が、誤解を与えるような質問の構成なんですがと言って、今例に挙げられた答弁をしたのでございますが、その後の、いわばそれからしばらく後の平成二十九年三月二十四日には、既にこう一年以上前に答弁をしているわけでございます。

平成30年5月30日 代表質問  安倍晋三総理大臣

「いわばそれからしばらく後の平成二十九年三月二十四日」 というのは一体なんだろうか。 我々は日々苦戦している。

 

さて、何やらAIで文章を要約してくれる素晴らしいサービスが出来たようなので、試しに代表質問を三行に要約してもらった。

IMAKITA Document Squeezer

 

枝野幸男立憲民主党代表の発言も合わせて三行に要約している。

平成30年5月30日 国家基本政策合同審査会(代表質問) 3行で要約バージョン

枝野幸男代表(立憲民主党)

総理は、昨年二月十七日の衆議院予算委員会で、私も妻も一切、この認可にも国有地払下げにも関係ないわけでありまして、私や妻が関係したということになれば、これはまさに私は、間違いなく総理大臣も国会議員もやめるということははっきり申し上げておきたいとおっしゃいました。

ところが、月曜日の予算委員会を聞いておりますと、どうも、金品の授受がないなど、贈収賄に当たらないから問題がないかというようなことをおっしゃっているようにも聞こえる御発言がありました。

贈収賄などに該当すればもう総理大臣や国会議員をやめるのは当たり前の話でありまして、一年以上にわたって、限定なく、関係していたらやめると言ったことを前提に議論してきたというのにもかかわらず、どうも昭恵夫人が一定の関係をしていたことをうかがわせるような材料が出てきたら急に金品や贈収賄のような限定を付したとすれば、それは、一般にはそういったことをひきょうな行為といいます。

安倍晋三総裁(自由民主党)

枝野さんは、急にこの前、二十八日に、私が定義を、私がかかわっていればというかかわりについて、急に、定義、前提条件を急に二十八日につけたのではないかという御質問であります。

その後、三十年の二月二十八日も同趣旨の答弁をしておりました。

まず、枝野委員にも、今までの私の答弁をしっかりと確かめていただきたい、その上に言葉を選んでいただきたい、こう思う次第でございます。

枝野幸男代表(立憲民主党)

そして、問題は、金品の流れ等があったかなかったか、それはこの問題の本質なのでしょうか。

これは、金品の授受がなければ問題ないのか。

その私人になぜか公務員の方がおつきでついていること自体が、そもそも一般的に言えば問題でありますが、その公務員である谷査恵子さんを通じて財務省に問合せをかけている。 

安倍晋三総裁(自由民主党)

今、枝野委員が言われた森友学園の問題の本質というのは、そういうことなんでしょうか。

この問題の本質というのは、そうではなかったはずであります。

そして、その夫人付がこういう問合せに対応するのがどうかということでございますが、これについては、確かにそれは、私の事務所に、個人の事務所に回していただければ、そちらからこういう制度的な問合せに対しては制度的なお答えをさせていただいた、その方がよかったかもしれない、こう思うわけでございます。

枝野幸男代表(立憲民主党)

その知り合いの方から、社会福祉法人同様、優遇を受けられないかと総理夫人に照会があり、当方から問い合わせいただいたものとあって、この文書によれば、総理夫人に対して照会があった、その総理夫人が、いや、これは何とかならないと言ったのかどうかわかりませんが、総理夫人に対する照会を谷さんが勝手に見たりすることは基本的にないはずですから、総理夫人が問合せを谷査恵子さんにかわってしていただいたというのは文書が残っているんです。

そして、これは、仮に贈収賄等に当たっていなくても、総理の夫人である、そして私人である昭恵夫人がこうした影響力を行使した、しかも財務省に記録が残っているということは、総理夫人がこの問題にコミットしていて、しかも優遇を受けられることを希望しているのではないかということは全財務省が知り得る状況にある中で、あの異例の値引きが行われた。

そして逆に、これが本当だったら、つまり、総理も知らないところで、総理のお友達が理事長をしている学校が総理の名前を勝手に使って、そして物事を都合よく進めるために利用した、総理は利用された側ということになります。

安倍晋三総裁(自由民主党)

まず、財務省から出てきた文書について一方的な批判がありましたから、それにもお答えをさせていただかなければなりません。

それは、先ほどこれは申し上げていることでもございますが、妻に対しては、もうこれも何回も国会でお答えをさせていただいておりますし、今の同じ御批判に対しては、さきの予算委員会でも、私から、あるいは財務省からも既に説明をさせていただいていることでありますから、しかし、またそういう御指摘がございましたから、これはお答えをさせていただかなければなりません。

そして、加計学園につきましては、まさにこれは、もう既に何回も申し上げておりますように、指摘をされていた日にちには私は会っていないということは申し上げたとおりであり、また、加計理事長もそう発言をされているところでございます。

 いかがだろうか。ようやくはわかりやすいのだが、これでもなんかよくわからない気もするので、今度は一行に要約した。

 

平成30年5月30日 国家基本政策合同審査会(代表質問) 1行で要約バージョン

枝野幸男代表(立憲民主党)

ところが、月曜日の予算委員会を聞いておりますと、どうも、金品の授受がないなど、贈収賄に当たらないから問題がないかというようなことをおっしゃっているようにも聞こえる御発言がありました。

安倍晋三総裁(自由民主党)

まず、枝野委員にも、今までの私の答弁をしっかりと確かめていただきたい、その上に言葉を選んでいただきたい、こう思う次第でございます。

枝野幸男代表(立憲民主党)

これは、金品の授受がなければ問題ないのか。

安倍晋三総裁(自由民主党)

この問題の本質というのは、そうではなかったはずであります。

枝野幸男代表(立憲民主党)

その知り合いの方から、社会福祉法人同様、優遇を受けられないかと総理夫人に照会があり、当方から問い合わせいただいたものとあって、この文書によれば、総理夫人に対して照会があった、その総理夫人が、いや、これは何とかならないと言ったのかどうかわかりませんが、総理夫人に対する照会を谷さんが勝手に見たりすることは基本的にないはずですから、総理夫人が問合せを谷査恵子さんにかわってしていただいたというのは文書が残っているんです。

安倍晋三総裁(自由民主党)

それは、先ほどこれは申し上げていることでもございますが、妻に対しては、もうこれも何回も国会でお答えをさせていただいておりますし、今の同じ御批判に対しては、さきの予算委員会でも、私から、あるいは財務省からも既に説明をさせていただいていることでありますから、しかし、またそういう御指摘がございましたから、これはお答えをさせていただかなければなりません。

やってみた感想

AIの精度はかなりすごい。だいたい文意がわかる。ただ、一行にしても引き伸ばし感が出る総理の最後の返答はやはり最強である。

そのうち、普通の文章を「そのうち」「いわば」「何度も申し上げていることですが」などで水増しして文字数を増やすエンジンを実装して対決したい。

 

最後の回答、原文はこれ。

まず、財務省から出てきた文書について一方的な批判がありましたから、それにもお答えをさせていただかなければなりません。それは、先ほどこれは申し上げていることでもございますが、妻に対しては、もうこれも何回も国会でお答えをさせていただいておりますし、今の同じ御批判に対しては、さきの予算委員会でも、私から、あるいは財務省からも既に説明をさせていただいていることでありますから、しかし、またそういう御指摘がございましたから、これはお答えをさせていただかなければなりません。
 妻は、何度か留守番電話に短いメッセージをもらいましたが、土地の契約に関し具体的な内容については全く聞いていないということはもう何回か申し上げたとおりであります。
 そして、優遇を受けられないかと総理夫人に照会という件は、あくまでも籠池氏側が夫人付に宛てた手紙に書かれていたわけであります。そして、それに対してどのように理解をしたかということについては、先般、二十八日に、理財局太田局長から、このいわば文書を書いた者から聞いたその趣旨について御説明を既にさせていただいているわけでありまして、今申し上げたこととまさに趣旨は同じであるということでありました。
 ですから、それを殊さら、自分が、いわば積極的に持っていこう、政府や、あるいは私や、私の妻にこの問題を持っていこうということを考えるから、いわば本当の本質からどんどんそれていくわけでありまして、あくまでも、最初申し上げましたように、なぜこれはああいう値引きがされたかということをしっかりと突き詰めていくことが大切であって、そして、今それは財務省においてしっかりと調査をし、そしてまた、あるいは、今検察当局によって調べがなされているんだろう、こう思うところでございます。
 そして、加計学園につきましては、まさにこれは、もう既に何回も申し上げておりますように、指摘をされていた日にちには私は会っていないということは申し上げたとおりであり、また、加計理事長もそう発言をされているところでございます。その後、どういう経緯でああいうものになったのかということについての加計学園からの話もあり、また今治市からもあったわけでございます。
 ただ、この問題については、まず見失ってはならない視点は、私たちが何をやろうとしていたかということでありまして、獣医学部が五十年間もやはり新設されなかったのはおかしいということであります。(発言する者あり) 

質問通告とは何か ー その責任は誰にあるのか?

桜田義孝五輪担当大臣の「質問通告がなかった」発言をめぐり、再び質問通告のあり方が話題を読んでいる。

 

そもそも、質問通告は、国会法に決められたルールではなく、あくまで与野党間の慣習に過ぎない。いわゆる「2日前ルール」に関しても、単なる与野党間の取り決めである。

しかしながら、質問通告の遅れが省庁にいる官僚の労働環境を悪化させているという批判は、近年とみに野党批判として取り上げられるようになった。

すべての議員から質問通告が出揃うのは、平均で午後8時41分。もっとも早く出揃った日は午後5時50分だった一方で、もっとも遅かった日は日付が変わった午前0時半だった。

資料作成をする担当が決まったのは、平均で午後10時40分。もっとも早かった日は午後6時50分で、もっとも遅かったのが翌日午前3時だった。

それから資料の作成に取り掛かるというのだから大変だ。

 このような現状を踏まえて、若手官僚からは提言がなされている。

http://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/jinji_hatarakikata/pdf/teigen.pdf

 

今回は、そもそも質問通告とは何か、それはどうあるべきなのかについてまとめたい。

 

なぜ質問通告が遅れるのか

1. そもそも開催日程が決まらない

そもそも、日本の国会においては、本会議や委員会の開催が前日に決まることも珍しくない。2日前に通告しようにも、開かれるのかわからないのでは物理的に難しい。

この点は、自民党議員からは度々批判されている他、野党議員からも様々な形で提言がなされている。

国会の日程は基本的には前日まで決まりません。前日になってようやく「明日13時から本会議、所要時間2時間」というような予定が飛びこんできます。

地方議会は予め会期中の予定がきっちり決まっているため、地方議会の議員経験者の1年生議員の方々は、相当違和感があるようです。当方も、正直、前日まで日程が決まらないというのは参ります。

なぜこういう状況になるのか、というと、与党が多数を占めている衆院の下、内閣提出の予算や法案は、基本的には(衆院においては)修正が行われずに成立するという暗黙の前提があるため、野党が中身の議論よりも日程闘争に重きを置いているからです。(「予算の成立を遅らせて内閣を窮地に追い込む」というような、新聞紙上でよく見かける類のものです。)

 

決められない国会(日程)からの脱却 | 細田健一 衆議院議員 自由民主党 新潟2区

近年の議会は、法案成立のための日程がタイトになり、いわゆる「職権立て」(理事会の合意ではなく、委員長の職権で委員会を開催すること)が増えている。

衆院法務委員会は15日、外国人労働者の受け入れを拡大する出入国管理法(入管法)改正案について、16日に審議入りすることを葉梨康弘委員長(自民)の職権で決めた。野党側は反発を強め、15日も各党国会対策委員長が成立を阻止する方針を確認した。

 

入管法、委員会審議へ 委員長職権で決定、野党反発:朝日新聞デジタル

 このような傾向も、委員会の日程が決まらなくなる要因の一つとなっている。

 

日本が会期制の議会制度を採用しており、会期末までに審議未了で廃案にすることが野党の目的になっている、という批判は当然ある。

「読む国会」でも、度々通年国会を提案している。

 

一方で、慣例としては委員会理事会は全会一致が原則である。なぜなら、議会の委員長というのは立法府の一員であり、行政府に雇われているわけではないからだ。

近年、委員会委員長は政府の影響下を強く受けるようになった。すでに中立的な役職とは言えなくなっている。

例えば、先の通常国会では総理が河村予算委員長に「集中審議は勘弁して」などと述べたとして物議を醸した(河村氏は後に撤回)。

 

2. 大臣が官僚に依存している

そもそも、質問通告は森羅万象においてなされるべきなのだろうか?そもそも、通告がない質問というのは与野党問わず決して珍しくない。

これも今のお答えに関連してということですので、通告しておりませんので、お答えいただけるようであればということでありますけれども

平成30年07月05日 参議院内閣委員会 和田政宗議員

自民党の和田政宗議員もこう質問しているが、過去5年間の衆議院・参議院議事録を「通告しておりません」で検索したところ、248件の結果があった。「通告ありませんが」「通告していないのですが」なども含めれば相当な数である。

ちなみに、こういうときは「通告していないのでわからなければ結構ですが」などの前置きがつくことが多い。

 

通告しない例としては、下記のようなものがある。

  • 速報的な事柄に関する質問(朝刊の特ダネなど)
  • 通告するまでもなく答えられるであろう質問
  • 人間性・資質などに関する質問
  • やり取りの中で出てきた疑問

以前解説したとおり、予算委員会は慣例的に予算を執行する内閣の資質そのものを問うことが出来るため、幅広な質問がなされている。 

そもそも、国会質疑というのは生き物である。全部通告して全部答えがわかっているなら、そもそもやる必要がない。すべて質問主意書にすればいいのだから。

だからこそ、とりわけ内閣の資質を問うような質問に関しては、通告せずに質問することはおかしなことではない。

例えば、物議を醸した桜田義孝大臣の場合、オリンピックの基本コンセプトやビジョンなどは、別に通告しなくても当然答えられて然るべき質問のはずだ。

細かい予算の細目などは当然通告すべきであるけれども、基本的な質問に対して「通告がないから答えられない」と答えるのは単純に大臣としてその職責を果たせないと判断されてもやむを得ないのではないか。

 

3. 野党があえて遅らせている?

もちろん、「野党が質問通告を遅らせている」という批判も当然存在するだろう。

河野外務大臣はこのように述べている。

 

現在のように国務大臣が国会に貼り付けになる、しかも極端な時はその日の未明に質問通告が出され、そのために、すべての日程がそれでガラガラと変わるというのは、合理的とは言えません。

特に外国の閣僚が来日し、閣僚間の会談が設定されているにもかかわらず、質問通告があればそれを変更しなければならないというのは、外交にも影響が出てきます。

予算委員会ならば、どの省庁の予算の審議は何日に行うということを決めればそれに応じて大臣の日程を事前に確保できます。

大臣が質問通告に振り回され、行政のトップとしての仕事をする時間がきちんと事前に決められないということは、官民合わせてものすごく多くの人の時間を振り回していることになります。 

質問通告 | 衆議院議員 河野太郎公式サイト

いくら日程がタイトとは言え、未明に質問通告が出るような状況は、当然野党議員にも責任の一端があるのではないか。

 

まとめ

こうしてまとめてみると、大きく3つの問題があった。

  1. 前日に委員会開催が決まる、国会の日程制度
  2. 官僚に依存せざるを得ない閣僚の資質
  3. ギリギリまで通告をしない野党

一般的には、3番が最大の要因と考えられているかもしれないが、本稿で問題にするのは主に1と2になる。

 

質問通告は必要か?

そもそも、質問通告はこれほど大量に必要なのだろうか?

イギリスでも質問通告制度があるが、通告は3営業日前までになされるため、通常の勤務時間内に十分対応することができる。

 

フランスでは、システマティックな質問通告制度がないため、逆に、閣僚は一般的な準備を行った上で、その範囲内で答えるしかない。そのため、時には不正確な答弁を行ってしまうこともやむをえないものと、受け止められているようだ。 

ヨーロッパで活躍する財務官僚が寄稿──官の「人材と働き方の多様性」が国を強くする | クーリエ・ジャポン

海外ではこれほど官僚が手取り足取り、場合によっては質問に対する返答だけではなう、質問そのものを作ってしまう状況というのは考えづらい。

野党の質問通告ばかりに文句がつくようだが、小泉進次郎議員を始めとした議会制度の改革論者は「我々は官僚の働き方改革をするために、国会答弁書については縮小する。具体的な数値に関しては通告いただきたいが、それ以外は閣僚の言葉で答弁をする」と答えればいいのではないだろうか?

 

自民党の小林史明前総務政務官は、このように述べている。

イギリスの下院では、“閣僚級”同士のクエスチョンタイムは月曜から木曜まで1時間実施されます(参照:国立国会図書館『英国における政権交代』)。

同じようなシステムをもし日本に導入したら、野党側はいまよりも専門的で、かつ実のある政策論で追及し、法案の修正や廃案を迫るようになります。当然のことながら、野党としては政権担当能力を示す方向にインセンティブが働くようになるでしょう。

 

これは政権側にとっても厳しいながらメリットがあります。本質論で攻められるとなれば、矢面に立つ閣僚は、付け焼刃の勉強では対応できなくなります。そこで、諸外国に比べ大臣の国会審議への拘束がきつすぎる現状を変える。政策の勉強や現場視察、あるいは外遊などに時間をあてて政権側も研鑽を積むようにすることで今よりも生産的な時間の使い方になります。

日程闘争からの解放:与野党が真に政策を競うための国会改革へ – 自由民主党・衆議院議員 小林史明 公式サイト

小林議員が書いている通り、与野党の健全な議論のためにも、また本質的には最も官僚の負担を減らすためにも、閣僚がその言葉で語ることはとても重要ではないか。

(もっとも、そこで問題発言をすればその尻拭いをするのは官僚である、という堂々巡りの問題もあるのだが)

 

日程闘争を超えて

質問通告問題というのは、本質的には日程闘争の問題であり、それを(立法府の権限を縮小しない形で)改善しようとすると、会期制度自体、あるいは委員会中心主義自体を再考せざるを得ない。

河野外務大臣や、小林前総務政務官などが主張されているのも、いわゆるイギリス型議会への転換であり、それは必然的に委員会を縮小した上で本会議の権能を強化するという議論につながる。

また、今回の桜田大臣など、そもそも大臣としての資質に重大な疑義がある方が大臣としてその職責を担っていることも合わせて考えなくてはいけない。

 

もしも霞が関の負担を減らすということになれば、アメリカのように政党や議員のスタッフを増強し、政策立案や答弁作成の補佐をさせるという考え方もあるだろう。

「質問通告が遅い」という事象だけを見れば野党の責任あるように見えるかもしれないが、霞多くの重要法案において生煮えの状態で、立法府の中立性を侵してもタイトな日程で法案成立を目論む与党こそ、まずは立法府のあり方を再考すべきではないだろうか。

教育勅語はどのように国会において「排除」されたのか。排除決議を現代語訳してみる

 

柴山文部科学大臣が教育勅語について言及したことで、波紋が広がっている。

mainichi.jp

 

ところで、国会においては教育勅語を「排除」することを正式に決めている。しかしながら、排除と言っても実際に何を指しているのか、多くの人がきちんと理解していないようだ。

下記に、現代語訳した物を掲載する。

 

なお、読める方はきちんと原文を読まれることをおすすめしたい。

衆議院会議録情報 第002回国会 本会議 第67号

 

松本淳造衆院議員による決議案の趣旨説明

第二回国会 本会議 第六十七号 昭和二十三年六月十九日(土曜日)

 

私は、各派共同提案であります教育勅語等排除に関する決議案提出にあたって、その趣旨を弁明します。


永い間、国民の精神を支配していた教育勅語等を排除するのですから、その影響は甚大です。

すでに文教委員会等におきましても数回にわたる会合をおいて慎重に審議しましたが、その結果、本日首題の通り、教育勅諸等を排除するという決議案提出に至りました。

 

なおこの教育勅語等の等でございますが、これは教育勅語に類する、主として教育関係の勅語、詔勅、これらを意味するもので、すなわち陸海軍軍人に対する勅諭(天皇からの諭し)、戊申詔書、青少年学徒に対する勅語(天皇からの言葉)等を指します。この点、あらかじめご了承ください。


まず、主文を朗読いたします。

教育勅語等排除に関する決議文

民主平和国家として世界史的にも建設途上にあるわが国は、その精神において未だ決定的な民主化したとは言えず、大変に遺憾である。

これを徹底にするのに最も重要なことは教育基本法に則り、教育の革新と振興とをはかることにある。

しかるに既に過去の文書となった教育勅語や、陸海軍軍人に対する勅諭、その他の教育に関する諸詔勅(しょうちょく 天皇からの文書)が、今日もなお道徳の指導原理としての性格を持続しているかのごとく誤解されるのは、行政上の措置が不十分であったからである。


思うに、これらの詔勅の根本理念が、主権在君並びに神話的国体観に基づいている事実は、明らかに基本的人権を損い、国際信義に疑点を残す。

よって憲法第九十八條の主旨に従い、衆議院はこれらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。

政府は直ちにこれらの詔勅の謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。


右決議する。


ただいま朗読いたしました主文の通り、現在わが国は平和国家、民主国家としての建設の途上にあります。

ポツダム宣言受諾以來、かつまた新憲法制定以来、確固として決定された国の方針であると言っても間違いはありません。

従って、われわれといたしましては、それを目指して、あらゆる改革を断行し、また断行せんとしています。

ところが、それらの諸改革は、すでに制度上におきましては相当大幅に、画期約に、なされてきましたが、制度上の改革に比べますと、精神的内容についての改革、すなわち、精神革命については、まだ充分とは言えません。

この点は率直に認めてよいでしょう。

すなわち、従来の封権主義的、軍国主義的、超国家主義的な、そういった理念、精神から、個の尊厳を確認しますところの民主主義的な精神の切替え、改革といったものが、まだまだ充分になされていない、世界の水準にも達していないということは、遺憾ではありますが、事実と言わなければなりません。

 

従って、新憲法が制定されても、依然として古い考え方が残っております。新しい考え方と古い考え方がときに衝突し、ときに予盾し、その結果混乱をひき起して、そのために民主化が停滞している、と言っても間違いはありません。

世間でいいますところの道義の頽廃、あるいは虚無的な、理想を欠いた生活展開は、つまりは、この精神の混乱から生れてくる現象であると言っても間違いではありません。


そこで、我々といたしましては、このような混乱をいつまでも放置しておくわけには参りません。できるだけこれらを整理し、民主的な精神内容を国民の一人ひとりが正しく把握し、理想とする平和国家としての体を整え、国際的にも信頼されなければならないのです。

そして、そのことを達成するためには、何よりも教育が本質的に必要で、そのために、教育基本法をすでに制定し、これによって国民の指導原理を明らかにしているわけです。


その基本法においては、われわれは新しい憲法の精神に則り、民主的で文化的な国家を建設して、世界平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示し、個人の尊厳を重んじ、心理と平和を願う人間の育成を期するとともに、普遍的で、個性豊かな文化の創造を目ざす教育を普及徹底しなければならないと規定しているわけです。


ところが、このように明確に規定しているのですが、その規定及びその内容が、国のすみずみまで行き渡っていないのは残念なことです。

そして、その効力を失っている教育勅語、あるいは陸海軍人への勅論、または戊申詔書、青少年学徒への勅語等、これら教育に関する諸詔勅が、未だに国民道徳の指導原理であるかのごとく誤解されている向きもあります。

この点は、民主革命の基本である精神革命の達成には、かなり重要なポイントでして、これをこのまま見逃がしておくことは、決してわが国の現在や将来に、良いことではありません。


ところで、なぜそのような誤解が残っているのか。これが問題になりますが、これは前にも申しました通り、新憲法あるいは教育基本法の精神が、未だ国民の精神内容そのものになっていない結果であることは当然ですが、これらの諸詔勅に対する措置が、法制上または行政上における措置が、今日まで十分に取られていなかったと考えざるを得ません。


といって、その措置が全然なかったわけではありません。たとえば、昭和二十一年三月には儀式の場合に勅語を読め、との項目を削除し、教育は教育勅語の趣旨に則れという項目を削除しました。

 

次いで、昭和二十一年十月八日、その当時の文部省は、次官通牒の形式で、「教育勅語を我が国の教育における唯一の源とせず、式日等に読む慣例をやめる。神格化しない。」と、行政上の措置をとっています。


けれども、その措置がきわめて消極的でして、残念ながら徹底を欠いていますから、本当に勅語を廃止したのか、失効したものとして認めているのか、自然に消滅すればいいと思っているのか、いずれにせよ、徹底的な措置がなされているとは言いがたい点があります。

従って、今もなお教育勅語の謄本は、各学校に保管させて、そのままにしているような状態です。だから国民も、はたして勅語が失効したのか、効力をもっているのか、生きているのか、判断できませんから、そこにいろいろな誤解が生れてくるわけです。


これらを考える場合、われわれは、その教育勅語の内容におきましては、部分的には真理性を認めるのです

それを教育勅語の枠から切り離して考えるときには真理性を認めるのですが、勅語という枠の中にある以上は、その勅語そのものが持つところの根本原理を、我々としては現在認めることができません

それが憲法第九十八条にも沿いませんので、この際この条文に反する点を認めて、教育勅語を廃止する必要があると考えざるを得ません。

 

これは単に国内的の視野においてだけではなく、国際的の視野においても、特に明らかにしておくことが必要です。

本日衆議院は、院議によってこれらの諸詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言し、政府によって直ちにこれら詔勅の謄本を回収し、はっきりと排除の措置を完了したいと思います。
以上、簡単ですが、教育勅語等排除に関する決議案上程に際し、その趣旨を弁明しました。諸般の事情を考え、賛成いただきたいと思います。(拍手)

 

決議案と趣旨説明についての解説

ここのところで重要なのは二点になる。

詔勅の根本理念が、主権在君並びに神話的国体観に基づいている事実は、明らかに基本的人権を損い、国際信義に疑点を残す。

 という決議と、

われわれは、その教育勅語の内容におきましては、部分的には真理性を認めるのです。

それを教育勅語の枠から切り離して考えるときには真理性を認めるのですが、勅語という枠の中にある以上は、その勅語そのものが持つところの根本原理を、我々としては現在認めることができません。

 という点だ。

 

つまり、「切り離して考えたときには一部いいことも書いてあるかもしれないが、それが根本的に主権在君に基づいている以上、根本原理を認めることが出来ない」ということが言える。

この、前半の「切り離して考えたときには一部いいことも書いてある」という点をまさに切り離して考えているのが柴山文部科学大臣だろう。

全体としてこの決議が、「主権在君」と「教育勅語」が不可分であり、そのために教育勅語を排除するべきである、ということを言っていることは否定しがたい事実であるといえる。

「アベ政治を許さない」に感じる違和感

www.asahi.com

金子兜太さんが書かれた「アベ政治を許さない」という文字は、様々なところで用いられ、未だに政治的なプロテストの場ではよく使われている。

その成立の経緯については充分に理解しているし、敬意を払いたい。

 

 

しかし、私は、「アベ政治を許さない」という言葉、あるいはそれを用いた政治的なパフォーマンスには、ずっと違和感を覚えている。

安保法制強行採決のあとから、度々駅に「スタンディング」という形で無言でボードを持っている人がいたが、率直にいえば、黙ってそのボードを持っている人を見ると、怖い、とすら思う。

先日、私のつぶやいた内容を巡って様々なご意見をいただき、改めてなぜ「アベ政治を許さない」というボード、あるいはメッセージに対して違和感を感じるのかを考えた。

 

そこにあるのはむき出しの怒りだけ

もちろん、このブログを見ていただいている人ならおわかりの通り、私は安倍政権の国会運営や憲法を軽視する姿勢に大して大きな疑問を抱いている。

しかし、そのような前提をおいてもなお、この「アベ政治を許さない」というボードを見た時に感じる感情は、決して快いものではない。

 

問題は、「アベ政治を許さない」というボードを見るだけでは、「なぜ許さないのか」という理由がさっぱり伝わってこないことにある。

 

例えば、「アフリカの子供に学校を」というスローガンは、「アフリカの子供たちの識字率は○%で、それによって失業率は○%となっています」というような説明があって初めて、「なるほど、それは確かに学校が必要だな」と納得することができる。

しかし、単に「私は怒っている」と伝えられるだけでは、そこにはもやもやした違和感が残るだけだ。

 

私は国会をよく見るので、彼らがは何に怒っているのかは分かる。

しかし、ほとんどの人は理由もなく怒っている、もっというとイチャモンをつけているように見えるだろう。

 

つまり、「アベ政治を許さない」というのは、ものすごくハイコンテキストなコミュニケーションなのだ。

つまるところそれは、同じ文脈を共有しているものにしか通じないコミュニケーションであり、ほとんどある種の符号や隠語としてしか機能していない。

 

もちろん、おかしいこと、間違ったことは何年経とうと間違っているし、安保法制を巡る過程は極めて問題の多いものだった。

しかし、人間の記憶は薄れてしまうものだ。理由を説明しなければ「ただよくわからない理由で怒っている人」という扱い方をされてしまうだろう。

 

「保守の文脈から語れるリベラル」の不在

安倍総理という人はまともに議論もできないわ、身内は贔屓するわ、宰相としてのろくでもなさは群を抜いているが、少なくとも、自分に何が求められているかを察知する能力には長けている。

 

安倍総理は、自分がリベラルであると心から信じ込んで話すことが出来る。例えば、少子化対策や、男女共同参画など(成果を上げているかは別にして)、自らと異なる立場の人間に対して響くような政策を語ることができる。

それは、安倍総理のコミュニケーターとしての強みである。自民党は田中角栄以来、そのようにして野党の支持層を切り崩してきた。

 

翻って、「保守の文脈から語れるリベラル」が必要とも言える。

立憲民主党の枝野代表は度々自らを保守と語っている。このように「異なる立場においても語れる」ことが、ますます求められてくるのではないだろうか。

 

 

自らを保守と規定する人たちに対して、丁寧に安倍総理の問題点を説明していくことこそ、政治活動であり、政治的なパフォーマンスとして有効足り得るのではないか、と私は思うし、その意味で「アベ政治を許さない」は、果たして有効なのか疑問が残る。

 

新しい政治的コミュニケーションのあり方を

「アベ政治を許さない」は、安保法制の強行採決という時代において発生したコミュニケーションでだ。

しかし、3年が経ち、多くの人の記憶から安保法制の記憶が薄れてしまった今、そこから汲み取れるのは「彼らは怒っているのだ」という点だけだ。

 

もちろん、これらは、クローズドなコミュニティにおいては一定程度効果があるのかもしれない。しかしながら、全くそれらの事情を斟酌しない他者に対しては、効果的なパフォーマンスとは言えないだろう。

 

私が代案として提案していきたいものがある。それは「8時間働けばまともに暮らせる社会へ」だ。

 

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これは、参院の神奈川選挙区に出馬されていたあさか由香候補のスローガンだったと思うのだが、日本共産党さん全体で使われているようだ。

これはとにかくわかりやすいし、誰もが共感できるスローガンだし、どの野党も使えばいいんじゃないかと思う。著作権とかの問題があるのかはよくわからないけど。

でも、別にどの産別でもこれに反対する理由はないはずだ。

 

union.fem.jp

 

また、度々ご紹介している法政大学上西教授による「国会パブリックビューイング」も素晴らしい試みだと思う。

 

我々は、ハイコンテクストなコミュニケーションに逃げることがなく、なぜおかしいと思うのか、なぜ間違っているのかと思うのかを説明し続けなくてはいけない。

だからこそ、国会で何が起こっているかをメディアが伝えなくてはいけないし、メディアが伝えないなら、国会を見ている奇特な人が筆を執るべきだと思う。

 

そういうわけで、私も国会開会中には、国会で何が起こっているかについて記事を書いたりしているわけだ。

「アベ政治を許さない」はイデオロギーかもしれないが、公文書改ざんはファクトである。そして、国家にとって重要なファクトを伝えることには、右も左もない。

 

そして、結局の所、そういったファクトを伝え続けることでしか、この国に正常な民主主義は戻らない、と考えている。

毎月勤労統計と賃金センサスの違い - 西日本新聞の指摘に関して

なんとなく気になったので。

 

この西日本新聞の記事に対して、 

 

上記のような批判があった。

 

筆者の主張

ざっくり筆者の主張をまとめると、

  • そもそも毎月勤労統計は不正確な指標である
  • サンプリング手法の変更は、よりデータを正確にするために行ったのだから問題ない
  • 西日本新聞にはデータリテラシーがない

というあたりになるだろうか。本当にざっくりなのでくわしくはリンク先を読んでほしい。

 

データの上振れについて

 厚労省によると、作成手法の見直しは調査の精度向上などを目的に実施した。調査対象の入れ替えは無作為に抽出している。見直しの影響で増加率が0・8ポイント程度上振れしたと分析するが、参考値を公表していることなどを理由に「補正や手法見直しは考えていない」(担当者)としている。

西日本新聞の記事にはこうある。

政府自身が上振れしていることは認めているし、ローテーションサンプリングへの変更による影響は下記の資料にも明記されている。

https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/dl/maikin-rotation-sampling.pdf

 

毎月勤労統計とはなにか

そもそもデータというのは、

  1. 正確であるかどうか?
  2. 継続的に同じ基準で取られているか?  

の二つが重要だ。

 

さて、毎月勤労統計のページを見ると、調査の目的についてこのように書かれている。

毎月勤労統計調査は、雇用、給与及び労働時間について、全国調査にあってはその全国的の変動を毎月明らかにすることを、地方調査にあってはその都道府県別の変動を毎月明らかにすることを目的とした調査です。

つまり「変動を毎月明らかにすること」が目的だ。景気動向や政策の効果を検証するためには、上がったか下がったかが重要だろう。

多少のブレがあるにせよ、一貫した基準で取られていることが重要なタイプのデータであることが分かる。

 

ちなみに、賃金構造基本統計調査(いわゆる賃金センサス)との違いについても、このように書かれている。

 賃金構造基本統計調査は、賃金構造の実態を詳細に把握するための調査です。労働者の雇用形態、就業形態、職種、性、年齢、学歴、勤続年数、経験年数等の属性別に賃金等を明らかにします。毎年6月分の賃金(賞与については前年1年間)について同年7月に調査を実施し、その結果については、翌年2月に公表しています。

 毎月勤労統計調査は、賃金、労働時間及び雇用の毎月の変動を把握するための調査です。産業別、就業形態別の賃金等を毎月明らかにします。調査の結果については、翌々月上旬に速報、その半月後に確報として公表しています。

 

何が問題なのか?

問題は、異なる基準で取られた(上振れしている)データが、同じデータセットの中に収集され、時系列で比較されてしまうことにある。

変動を把握するための調査で、基準が変わってしまえば、その期間の政策の効果検証や景気の動向の確認ができなくなるということだ。

厚労省はサンプリング手法を変えながら、参考値を公表しているが、この参考値はサンプリング対象から外した標本だけを対象にした値なので、過去の数字と比較して並べることは出来ない。

 

先のnote の筆者は

平成30年以前は、むしろ公表値より共通事業所の方が高かったわけで、標本になんらかのバイアスがかかって、改訂前の標本はもともとちょっと低かった可能性もあるわけです。

と述べている。

 

しかし、バイアスがかかっていたなら、過去のデータのバイアスを補正した上で比較しなくては、知見は得られない。

 

過去のデータのほうが仮に間違っていたとしても、その間違った基準のデータと現在の正しいデータを突き合わせて比較すれば、実際の賃金の伸びよりも遥かに上振れした数値が出てしまう可能性があるのだ。

これは、時系列で比較するタイプのデータとしては致命的だ。Apple to Apple ではない。

 

総論

西日本新聞にデータリテラシーがないとは言えない。というか、少なくともちゃんと取材して「上振れしているが補正するつもりはない」と答えているんだからかなりちゃんとした取材であろう。

 

少なくとも過去の一定期間(過去一年とかでも)のデータに関しては、現状のデータと同じ基準で比較できるよう補正した上で公表する必要があるのではないだろうか。

あと、例えば参考値ではなく、一定期間は「旧基準での推定値」みたいなものを出すとか。

 

それが出来ないのであれば、政府は毎月勤労統計の発表に際して、「基準が変わっているから一定程度上振れしている(これは厚労省も認めている)」ことを丁寧に説明する必要があると思う。

厚生労働省のサンプリング手法変更に問題があるとは思わないが、上振れした数値を、まるで自らの政権の実績であるかのように喧伝することがないようにしてほしい。