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教育勅語はどのように国会において「排除」されたのか。排除決議を現代語訳してみる

 

柴山文部科学大臣が教育勅語について言及したことで、波紋が広がっている。

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ところで、国会においては教育勅語を「排除」することを正式に決めている。しかしながら、排除と言っても実際に何を指しているのか、多くの人がきちんと理解していないようだ。

下記に、現代語訳した物を掲載する。

 

なお、読める方はきちんと原文を読まれることをおすすめしたい。

衆議院会議録情報 第002回国会 本会議 第67号

 

松本淳造衆院議員による決議案の趣旨説明

第二回国会 本会議 第六十七号 昭和二十三年六月十九日(土曜日)

 

私は、各派共同提案であります教育勅語等排除に関する決議案提出にあたって、その趣旨を弁明します。


永い間、国民の精神を支配していた教育勅語等を排除するのですから、その影響は甚大です。

すでに文教委員会等におきましても数回にわたる会合をおいて慎重に審議しましたが、その結果、本日首題の通り、教育勅諸等を排除するという決議案提出に至りました。

 

なおこの教育勅語等の等でございますが、これは教育勅語に類する、主として教育関係の勅語、詔勅、これらを意味するもので、すなわち陸海軍軍人に対する勅諭(天皇からの諭し)、戊申詔書、青少年学徒に対する勅語(天皇からの言葉)等を指します。この点、あらかじめご了承ください。


まず、主文を朗読いたします。

教育勅語等排除に関する決議文

民主平和国家として世界史的にも建設途上にあるわが国は、その精神において未だ決定的な民主化したとは言えず、大変に遺憾である。

これを徹底にするのに最も重要なことは教育基本法に則り、教育の革新と振興とをはかることにある。

しかるに既に過去の文書となった教育勅語や、陸海軍軍人に対する勅諭、その他の教育に関する諸詔勅(しょうちょく 天皇からの文書)が、今日もなお道徳の指導原理としての性格を持続しているかのごとく誤解されるのは、行政上の措置が不十分であったからである。


思うに、これらの詔勅の根本理念が、主権在君並びに神話的国体観に基づいている事実は、明らかに基本的人権を損い、国際信義に疑点を残す。

よって憲法第九十八條の主旨に従い、衆議院はこれらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。

政府は直ちにこれらの詔勅の謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。


右決議する。


ただいま朗読いたしました主文の通り、現在わが国は平和国家、民主国家としての建設の途上にあります。

ポツダム宣言受諾以來、かつまた新憲法制定以来、確固として決定された国の方針であると言っても間違いはありません。

従って、われわれといたしましては、それを目指して、あらゆる改革を断行し、また断行せんとしています。

ところが、それらの諸改革は、すでに制度上におきましては相当大幅に、画期約に、なされてきましたが、制度上の改革に比べますと、精神的内容についての改革、すなわち、精神革命については、まだ充分とは言えません。

この点は率直に認めてよいでしょう。

すなわち、従来の封権主義的、軍国主義的、超国家主義的な、そういった理念、精神から、個の尊厳を確認しますところの民主主義的な精神の切替え、改革といったものが、まだまだ充分になされていない、世界の水準にも達していないということは、遺憾ではありますが、事実と言わなければなりません。

 

従って、新憲法が制定されても、依然として古い考え方が残っております。新しい考え方と古い考え方がときに衝突し、ときに予盾し、その結果混乱をひき起して、そのために民主化が停滞している、と言っても間違いはありません。

世間でいいますところの道義の頽廃、あるいは虚無的な、理想を欠いた生活展開は、つまりは、この精神の混乱から生れてくる現象であると言っても間違いではありません。


そこで、我々といたしましては、このような混乱をいつまでも放置しておくわけには参りません。できるだけこれらを整理し、民主的な精神内容を国民の一人ひとりが正しく把握し、理想とする平和国家としての体を整え、国際的にも信頼されなければならないのです。

そして、そのことを達成するためには、何よりも教育が本質的に必要で、そのために、教育基本法をすでに制定し、これによって国民の指導原理を明らかにしているわけです。


その基本法においては、われわれは新しい憲法の精神に則り、民主的で文化的な国家を建設して、世界平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示し、個人の尊厳を重んじ、心理と平和を願う人間の育成を期するとともに、普遍的で、個性豊かな文化の創造を目ざす教育を普及徹底しなければならないと規定しているわけです。


ところが、このように明確に規定しているのですが、その規定及びその内容が、国のすみずみまで行き渡っていないのは残念なことです。

そして、その効力を失っている教育勅語、あるいは陸海軍人への勅論、または戊申詔書、青少年学徒への勅語等、これら教育に関する諸詔勅が、未だに国民道徳の指導原理であるかのごとく誤解されている向きもあります。

この点は、民主革命の基本である精神革命の達成には、かなり重要なポイントでして、これをこのまま見逃がしておくことは、決してわが国の現在や将来に、良いことではありません。


ところで、なぜそのような誤解が残っているのか。これが問題になりますが、これは前にも申しました通り、新憲法あるいは教育基本法の精神が、未だ国民の精神内容そのものになっていない結果であることは当然ですが、これらの諸詔勅に対する措置が、法制上または行政上における措置が、今日まで十分に取られていなかったと考えざるを得ません。


といって、その措置が全然なかったわけではありません。たとえば、昭和二十一年三月には儀式の場合に勅語を読め、との項目を削除し、教育は教育勅語の趣旨に則れという項目を削除しました。

 

次いで、昭和二十一年十月八日、その当時の文部省は、次官通牒の形式で、「教育勅語を我が国の教育における唯一の源とせず、式日等に読む慣例をやめる。神格化しない。」と、行政上の措置をとっています。


けれども、その措置がきわめて消極的でして、残念ながら徹底を欠いていますから、本当に勅語を廃止したのか、失効したものとして認めているのか、自然に消滅すればいいと思っているのか、いずれにせよ、徹底的な措置がなされているとは言いがたい点があります。

従って、今もなお教育勅語の謄本は、各学校に保管させて、そのままにしているような状態です。だから国民も、はたして勅語が失効したのか、効力をもっているのか、生きているのか、判断できませんから、そこにいろいろな誤解が生れてくるわけです。


これらを考える場合、われわれは、その教育勅語の内容におきましては、部分的には真理性を認めるのです

それを教育勅語の枠から切り離して考えるときには真理性を認めるのですが、勅語という枠の中にある以上は、その勅語そのものが持つところの根本原理を、我々としては現在認めることができません

それが憲法第九十八条にも沿いませんので、この際この条文に反する点を認めて、教育勅語を廃止する必要があると考えざるを得ません。

 

これは単に国内的の視野においてだけではなく、国際的の視野においても、特に明らかにしておくことが必要です。

本日衆議院は、院議によってこれらの諸詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言し、政府によって直ちにこれら詔勅の謄本を回収し、はっきりと排除の措置を完了したいと思います。
以上、簡単ですが、教育勅語等排除に関する決議案上程に際し、その趣旨を弁明しました。諸般の事情を考え、賛成いただきたいと思います。(拍手)

 

決議案と趣旨説明についての解説

ここのところで重要なのは二点になる。

詔勅の根本理念が、主権在君並びに神話的国体観に基づいている事実は、明らかに基本的人権を損い、国際信義に疑点を残す。

 という決議と、

われわれは、その教育勅語の内容におきましては、部分的には真理性を認めるのです。

それを教育勅語の枠から切り離して考えるときには真理性を認めるのですが、勅語という枠の中にある以上は、その勅語そのものが持つところの根本原理を、我々としては現在認めることができません。

 という点だ。

 

つまり、「切り離して考えたときには一部いいことも書いてあるかもしれないが、それが根本的に主権在君に基づいている以上、根本原理を認めることが出来ない」ということが言える。

この、前半の「切り離して考えたときには一部いいことも書いてある」という点をまさに切り離して考えているのが柴山文部科学大臣だろう。

全体としてこの決議が、「主権在君」と「教育勅語」が不可分であり、そのために教育勅語を排除するべきである、ということを言っていることは否定しがたい事実であるといえる。