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「反対ばかりじゃない野党」「提案型野党」は可能なのか?

本稿は、野党の歴史を追うことで、真の「提案型野党」とはいかなるものかを考えることを目的とした記事である。

 

昭和期

国対政治の時代

日本社会党時代は、また国対政治の全盛期であった。自民党の国対と社会党の国対は強いパイプを持ち、自民党はときに野党議員にカネを配るほどだった。

社会党の支持母体である総評と自民党にはホットラインがあり、いつでも電話一本で会話できる中だった。

国会内では乱闘があっても、裏では全て打ち合わせ済みであった。

最も有名なのが、田辺誠・金丸信のパイプラインだ。田辺誠の存在は、国対政治の象徴で有り続けた。

戦後史のなかの日本社会党 その理想主義とは何であったのか (中公新書)

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与党の法案改善プロセス

しかし、この時代の法案成立プロセスは、小選挙区制のもとでのプロセスとは少し違う。地元民への貢献がより重要視された中選挙区制の元では、社会党の目玉政策は形を変え、自民党の目玉政策として実現することも多かった。

 

1970年は、「公害国会」として佐藤栄作の号令のもと環境庁が発足し、1973年は、「福祉元年」として、田中角栄の元、老人医療の無償化・年金の物価スライド制などが成立した。

(*福祉元年に国民皆保険制度の成立と書いていましたが、国民皆保険の成立は1961年でした。お詫びして訂正します)

 

野党が唱える政策を、与野党のパイプを通じて与党が実現する、という形で、より左派的・リベラル的な法案が成立していた。

 

山が動いた参院選

初のねじれ国会

時代は変わる。平成元年の参議院選挙において、自由民主党は土井たか子率いる社会党に躍進を許し、初めて参議院の過半数を失った。

これにより、野党が本格的に政策立案に関与できるプロセスが史上初めて生まれたのだ。

 

自公民路線

自民党はいわゆる自公民路線(自民・公明・民社)を取り、三党の合意を重視して物事を決めるとともに、野党第一党の社会党とは対決路線を取るようになった。

この時代の社会党には法案を成立させる実力はなかった。山が本当に動くのはこの後である。

 

政権交代の時代

細川・羽田内閣

リクルート事件を契機に、小沢一郎は新生党を旗揚げし、細川連立政権が成立する。晴れて、非自民・非共産の政党は政権を取ることになる。

中でも、細川護煕の所属政党である日本新党は、後の総理大臣を輩出した。細川に導かれ政権与党の議員となったのは、

  • 野田佳彦
  • 小池百合子
  • 前原誠司
  • 枝野幸男
  • 茂木敏充

など、与野党で多数に渡る。

野党は初めて政権に関わることになる。そして、社会党の多数の議員は労組上がりの野党議員だったため、官僚出身や民間出身、松下政経塾出身の若手議員が政策立案に関わる…はずだった。

しかし、細川内閣は急激に失速し、ガラス細工は瓦解、結局法案はほとんど成立させることが出来ないまま終わってしまった。

ちなみに、自民党は予算審議すら拒否し、徹底抗戦姿勢を見せる。この後も含め、野党自民党というのは基本的に対決路線である。

 

自社さ政権

村山内閣と新進党の崩壊

社会党の連立離脱に合わせ、さきがけを巻き込んだ村山内閣というウルトラCが実現する。この時、社会党が連立に加わることで、自衛隊の容認など現実的な政策への修正を余儀なくされる。

そして、先の連立内閣で政権を維持できなかった反省から、巨大野党・新進党が誕生する。新進党は保守二大政党の一角を目指し、減税などを打ち出した。

新進党は大連立構想すら出るなど保守的な色彩の強い政党だったが、結局政策実現はできなかった。

これは、小選挙区制においての二大政党の宿命であるといえる。

 

金融国会

自社さの解消

その後、自社さ政権は終わる。その中で、社民・さきがけの議員を中心に結成された民主党は、政権与党を経験した議員を多数擁する現実的な左派政党であった。民主党と食い合いになった新進党は瓦解し、散り散りとなった。

しかし、再び野党にチャンスが訪れる。橋本内閣の是非を問うた平成十年の参院選で、自民党は大敗、再び参議院の過半数を失った。

野党案の丸呑み

橋本内閣の後を継いだ小渕内閣はいわゆる「金融国会」を迎える。この国会では、長銀の経営危機が鮮明化した中、金融を根本的に正常化しなくてはいけない、という使命を負った国会であった。

この時、金融再生法は、民主党案を丸呑みする形で成立した。議員立法を除くと、おそらく憲政史上初めて、野党が主体的になって法案を提出する、というケースである。

この時に法案を書いていたのが、

 

  • 枝野幸男
  • 塩崎恭久
  • 前原誠司
  • 石原伸晃
  • 茂木敏充

 

などの、いわゆる「政策新人類」である。

 

小泉旋風〜

小選挙区制と小泉純一郎の時代

この後、民由合併などを経て、民主党は二大政党の一角として成長していく。対して、自民党は更に小選挙区型の対決政治に適応し、郵政解散では刺客を立てるほど徹底して、内閣提出法案への賛同を求めた。

この時代、民主党では「対案路線」を唱えた前原誠司が代表になるも、偽メール問題で失脚し、小沢一郎が代表になる。

 

ねじれと二大政党へ

小泉の後を継いだ安倍晋三は、国民投票法や教育基本法など、悲願とも言える政策を強引に推し進めるが、参院選で大敗し国会は再びねじれ国会となる。

この時代、与党は何度も法案修正を余儀なくされた。例えば、今話題の共謀罪法案に関しても、民主党案を丸呑みする、というプランでギリギリまで進んでいたのだ。

小沢と福田による大連立構想すら出来るほど、この時代に自民・民主の国対のパイプは深くなっていた。山岡賢次ー大島理森のラインである。

 

民主党政権〜

華々しく誕生した民主党政権は参院選で崩れ、再び国会はねじれに陥った。

政権末期に「三党合意」が成立する。自民党・民主党・公明党の三党による社会保障と税の一体改革の成立だ。法案の賛否は別にして、歴史的な合意であった。

徹底した対決路線を取っていた野党自民党だが、一体改革に関しては、与野党を越えて法案のブラッシュアップがなされた。これは、金融国会の時代に共に法案を磨いた石原伸晃や塩崎恭久などの尽力も大きかった。

 

選挙に勝たなければ何の提案もできない

「提案型野党」は存在しない。 あるのは「協議する与党」である。野党は、与党が聞く耳を持って初めて提案が可能となる。

歴史を振り開ければ「提案型野党」が生まれるのは、殆どが参院選で勝利したねじれ国会の元での野党である。

過去に「提案型野党」を目指した前原民主党や、「保守二大政党」を目指した新進党など、徹底的に対決しなかった野党は消えていった。

小選挙区制のもとで、野党が法案の提案をすることは不可能だ。かつてのような国対政治の時代ではない。

日本政治は、既にポルスビーの言うところの変換型議会からアリーナ型議会へと変貌している。

 

「なんでも反対はダメだ」「提案型野党を目指すべきだ」というのは野党に対する現実的な提案ではない。与党に、野党の提案を飲むメリットが皆無だからだ。

 

問題は、国民が野党を上手く使いこなせていない点にあるように思う。

かつては、例えば政権を取らせるのは気が進まないが、参院選なら、ということで野党に投票し、野党の政策を一部反映させることで与党の修正を図る、というような投票行動も存在した。

「決められない政治」という言葉があまりにも踊った結果、そして、政権交代に対するネガティブイメージが強くなった結果、国民はそういったバランスの取れた投票行動をすることを恐れている。

ともあれ、真の提案型野党を目指すには、まず徹底した対決路線を取り、勝利しなくてはいけない、というのが本稿の結論である。

 

追記

野党は必ずしもすべての法案に反対しているわけではない。閣法の多くには賛成している。

また、超党派の議員立法は党派を超えて成立するケースもあるし、数少ないが(臓器移植法など)党議拘束の掛からない法案がないわけでもない。

党議拘束の範囲を狭めるべきではないか、という点などは今御指摘していきたい。