総理答弁の「募集と募るは違う」は、何を意味するのか
少し前の話題だが、改めて。
やっぱりこのシーン衝撃的すぎた。
— Tad (@TadTwi2011) January 28, 2020
安倍首相「私は募っているという認識で、募集しているという認識ではなかった」
宮本徹議員「募るというのは募集するのと同じことですよ」#募ってはいるが募集はしてない pic.twitter.com/CFqfDNwFks
募ったが募集せず…「翻訳できません」外国紙記者一同
— 冨永 格(たぬちん) (@tanutinn) January 31, 2020
朝日「かたえくぼ」から
安倍総理がなぜこのような珍答弁を繰り返すが、多くの人はよくわからないと思うが、似たような例はある。
不適切であるが改ざんではない
主催であるが契約主体ではない
「記憶にございません」と似たようなものだ。知らないといえば嘘になるが、記憶にないといえばそれは記憶にないだけなのだから嘘にならない。
(ご飯論法、という言葉も秀逸だけど、説明が難しいので個人的には「記憶にございません」と同じ、という方がニュアンスに近いのではないかという気もする)
つまりこれは、通常我々が使う自然言語とは著しくかけ離れた言語であり、対話が可能な言語ではなく、あくまで「言質を取られない」ための言語である。
事実を認めない限り、永遠にその事実は「あったかもしれないし、なかったかもしれない」ことになる
そして、「あったかもしれないし、なかったかもしれない」限り、人は信じたい方を選ぶことができる。マスコミも「野党は追求、総理は否定」と書かざるを得ない。
「募集と募るは違う」というのはつまり、「募集はしていない」という前提と「幅広く募っていた」というに整合性をもたせようとすると、当然の帰結となる答弁だ。
そこに論理的整合性があるのか、ではなく、2つの動かせない前提と証拠が存在することによる珍答弁だということだ。