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既に死んでいた日本の民主主義について ー 財務省・文書改ざん問題に思う

 財務省による文書改ざんが明らかになった。


 冒頭申し上げたいのは、これは安倍政権だけの問題ではないということだ。もちろん安倍総理の責任は免れないし、昭恵夫人の関与が明らかになった以上堂々と議員も総理もお辞めになるものと思っているが、森友学園が昭恵夫人の意向が働いて格安で土地を購入したことは、まともに政治を見ている人間なら誰もが知っていた話だ。そういう意味で、何も新しいことはない。

 言うなればちゃちな話だ。権力というものを勘違いした昭恵お嬢様が周りを振り回し、夫人付はイタリアに飛ばされ、籠池夫妻は独房で閉じ込められた。酷い話だが、こんなことは誰もがわかっていた話だ。

 本気で安倍夫妻が関わっていなかったと思っていたのは、よほどの馬鹿だけだ。

 

 しかし、財務省が省ぐるみで文書改ざんし、会計検査院がそのことを把握していたにも関わらず隠蔽していたとなれば、これは民主的国家としての存亡に関わる話だ。

 発端は安倍総理だろう。自分や妻が関わっていたら辞める、などと言ってしまったがために、嘘を糊塗するために文書の改ざんが必要になったと考えるのが自然だ。

 

 問題は、多くの場合、バレないウソを付くことは、あらゆる選択肢の中で最も合理的であるということだ。 

 例えば、日銀の岩田副総裁は、物価目標達成出来なければ辞めると言いながら居座ってひんしゅくを買ったが、もし物価統計を弄っていればスーパー副総裁として諸手を挙げて歓迎されただろう。

 安倍総理が「物価目標を達成できなかったら私は辞める」などと言わなかったことに心から感謝したい。

 実際に起きた事案でもそうだ。厚労省のデータ問題でも「裁量労働制は働き方改革だ」などと無理筋の議論の中に「裁量労働のほうが労働時間が短い」というデータが有れば、批判をかわすことが出来る。

 防衛省の日報問題も、最初から「戦闘」などという文字が存在していなかったことにしてしまえば、問題にされることもない。

 一度カンニングをしてしまった生徒は、真面目に勉強しなくてもなんとかなる、と覚えてしまう。

 そのような意味で、様々な省庁で、このような自体が常態化していたのではないか?という疑問がまず湧くだろう。

 

 正直に言って、この点を一体どのように解決すれば良いのか、私には全く解が見えない。本来省庁の適切な予算執行をチェックする、独立した機関であるべき会計検査院までがこの問題を把握していたと質問に答えたのだ。正直に言って、何をどうすればいいか私には分からない。

 無理筋な答弁をするのは、民主主義国家では許容範囲だ。しかし、改ざんをしてしまっては、議論の前提が成り立たない。

 なぜなら、立法府が行政府に対して説明責任を求め、それを見た国民一人一人が投票をし、我々の選良を選ぶことが民主主義の前提だからだ。

 予算の執行やあらゆる政策に関して、嘘偽り無く政府が回答していることが選挙を行う上でも大前提になる。

 その意味で、安倍政権は民主的に選ばれた政府とも言い難い。

 

 これは氷山の一角である。一つ公文書改ざんが発覚したということは、その裏に発覚しない改ざんがあると考えるべきだ。

 我々は、民主的政府が存在する前提を既に失っている。

 このような自体が発覚した上で会計検査院の存続が可能かどうかも分からない。しかし会計検査院がなくなれば、予算をチェックする機能を事実上日本は失うことになる。

 また、行政府から出されたデータが本当に正しいものなのか、あるいは正しいものだったのか、これからいちいちチェックするわけにも行かないし、さりとて信用するわけにも行かない。つまり、立法府による行政の監視に関しても機能不全に陥る。

 

 安倍晋三という一人の議員は、決して極右的思想を持っている人間ではないと私は考えている。むしろ、思想的にはゼロに近い。学生自体もノンポリだった。

 安倍さんという人は、ただ単に周りに影響されやすく、政治思想や強い意思を持たない凡庸な人間であると考えたほうがいいだろう。

(それらについては、青木理さんの書かれた書籍に詳しい)

安倍三代

安倍三代

 

 

 問題は、安倍政権の元で行われた様々な問題に、チェック機能が働かせる人が誰もいなかったことだ。与党も、官僚機構も、全くストッパー足り得なかった。

 もし仮に、将来遥かに破壊的思想を持った人間が総理大臣になった時、一体誰が歯止めをかけるのだろう。

 

 私は以前の記事で「腐敗国家とは、悪がなされ、それが見過ごされる国家である」と書いた。

 

 悪はなされ、それが見過ごされただけではなく、その悪に合わせて現実を改ざんせんと文書が書き換えられた。これが日本の現実だ。

 

 日本の民主主義が死んだ、というのは適切ではない。日本の民主主義は既に死んでいたのだ。これからはそれを蘇生する作業になる。

 生き返るかどうかは、誰も知らない。