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民主党のマニフェストとは何だったのか - 守られない公約の十年史

民主党のマニフェストへの批判は、下野して長い今も止むことはない。
曰く、詐欺である。曰く、実現しようという気は無かった。
事実、実現しなかった項目も多い。しかし、ではそもそもマニフェストとは何で、公約と何が違うのか?と問われれば、どう答えるだろう。

マニフェストの歴史

そもそも、なぜマニフェストが生まれたのか?これは、いわゆる政治改革関連法の流れで考えるとわかりやすい。 

  • 小選挙区制の実現
  • 党首討論の導入
  • 政党助成金の導入
  • 副大臣制度の導入
  • 政府委員の廃止 

これらは、いわゆる政治改革四法に端を発し、90年代〜00年代前半に次々と日本の国会に取り入れられた制度である。
その多くはイギリス(ウエストミンスター型)議会をモデルにしている。

日本の議会制度の成り立ち

少し歴史を遡って考えると、(当然ながら)日本の議会はイギリスよりアメリカの影響を強く受けて発足した。強力な委員会制度などを持ち、ポルスビー言うところの「変換型議会」、すなわち互いの妥協を持っての合意形成を重視した議会制度を目指した節がある。
三権分立を厳格に守るアメリカ議会の影響であろう。
これは、55年体制ではいわゆる国対政治という形で強く政策に反映された。国会対策委員会は、時に現金を渡してまで与野党円満な合意を目指したのだ。

他方、自民党政権の長期化に従い閉塞感の生まれた日本では、二大政党制への機運が高まる。
すなわち、国対の妥協で物事の進む変換型議会から、与野党がガチンコで戦うアリーナ型議会への転換である。
そのために必要とされたのが小選挙区や党首討論といった一連の政治改革だったわけだ。

そして、いわば英国かぶれとも言える現象の最後のピースがマニフェストであった。
しがらみの政治から、お互いにフェアに政策をぶつけ合い、公約することで競い合う、という政治への転換だ。

既存の公約とは違い、達成時期と数量目標を明確化することで後世の検証に耐えるものとする、という理念は、皮肉にも民主党政権への批判という形で実現した。

 

マニフェストの責任とは?

民主党自身の検証委員会によると、民主党のマニフェスト達成度は三割程度であった。高校無償化などの成果は残したが、腰砕けになった子ども手当や、着手すら出来なかった政策も多い。やはり過大なマニフェストで国民の期待を煽ったということであり、失政だったというほかないだろう。
達成率3割にとどまった「マニフェスト」 - ことばアップデート : 日経Bizアカデミー

2007年のマニフェストと、2009年のマニフェストを比べると、07年のほうが現実的である。政権が近づくにつれ「盛りすぎ」になっていった過程が垣間見える。

(07年)http://archive.dpj.or.jp/policy/manifesto/images/Manifesto_2007.pdf

(09年)http://archive.dpj.or.jp/special/manifesto2009/pdf/manifesto_2009.pdf

 

他方、自民党の政権公約を見てみる。

(12年)https://jimin.ncss.nifty.com/pdf/seisaku_ichiban24.pdf

(14年)https://jimin.ncss.nifty.com/pdf/news/policy/126585_1.pdf

 

「物価安定目標2%の早期達成」
「2017年の消費税引き上げと20年PB黒字化」
「天下りの根絶」

これらは贔屓目に見ても実現したとは言いづらい公約である。

 

2年前の自民党選挙公約 328項目中25項目しか実現できず│NEWSポストセブン 

 

民主党のマニフェストが詐欺なら、自民党の政権公約は一体なんと呼ぶのが適切だろうか。

岩田副総裁が2%の物価安定目標を2年で達成しなければ辞任する、と啖呵をきったのは、マニフェストではなかったから守る必要はないのだろうか?

 

マニフェストはどうあるべきか

マニフェストは本来現実的な政策の、国民との約束として使われるべきものだった。それは実現不可能な夢物語ではなく、現実に即した政策を政党に考えさせる手段だった。

ところが、民主党のマニフェストは肥大し、現実から乖離していった。

民主党政権のマニフェスト未達成が非難され袋叩きにあうのは正しい。国民との約束を守れなかったのであれば非難されて当然である。

 

 

他方、今の自民党の公約は、民主党政権の失敗から学び「GDP600兆」「一億総活躍」など、実現可能性も達成時期も不明瞭な、理念的なものが並んでいる。

これは、政権公約を検証しづらくする効果がある。

確かにGDP600兆を達成出来なかったから総理をやめろ、という人間も居ないだろう。

 

しかしそれは、公約として意味のあるものだろうか。

「アベノミクスのエンジンを力強く回す」「ローカルアベノミクスを推進」「革新的ビジネスモデルを創出」など、検証しようもない曖昧模糊とした概念を公約に組み込む方が、公約としては不健全だ。

(16年)https://jimin.ncss.nifty.com/pdf/manifest/2016sanin2016-06-22.pdf

 

 

この点に関して言えば、むしろ自民党は退化していると言っていい。

2009年、麻生内閣で打ち出された政権公約の方がはるかに現実的で、タイムスケジュールも明確である。これはマニフェスト的である。

(09年)https://jimin.ncss.nifty.com/pdf/manifest/2009_yakusoku_a.pdf

期日や数量を明確にすれば未達成を非難されるリスクは大きい。しかし、それを乗り越えて国民に約束するのが本来のマニフェストであり、政権公約のあるべき姿だろう。

 

あえて問いたい。マニフェスト選挙自体の理念は、死んでいないはずだ。

国民との約束を明確にすることは確実に選挙を有意義にし、有権者の意見を反映することにつながる。

 

理念的ではなく、国民に明確で明瞭な政権公約を打ち出し、そしてその進捗を持って政権の成否を判断する。それが本来の選挙のあり方ではないだろうか。
日本の議会政治を後退させるべきではない。