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国会において安楽死・尊厳死はいかに語られているか -「落合・古市対談」を踏まえて

古市 (前略)安楽死の話もそう。2010年の朝日新聞による世論調査では、日本人の7割は安楽死に賛成している。それにもかかわらず、政治家や官僚は安楽死の話をしたがらない。

落合 安楽死の話をすると、高齢者の票を失うと思ってるんですかね?

先日話題になった対談だ。この対談については、様々な論点で批判・言及されているが、この記事ではそれについては述べない。

今回は、尊厳死(安楽死)が国会においていかに語られていたのかについて述べる。

 

朝日の調査について

まず、朝日新聞の調査について言及されている点について確認しておきたい。残念ながらきちんとした出典がなかったので、それを引用した論文を孫引きすることになる。

論文にも述べられている通り、延命拒否は8割超、安楽死についての賛成は7割超であるが、実は、「自分の死に方について考えていない」人が74%もいる。

つまり、この回答は、自らの死のイメージを具体的にした上で述べられた回答だけではなく、一般常識として「無駄に延命するだけなら無駄」という周囲への配慮を踏まえた回答も含まれることが想定される。

 

自分自身が「寝たきりになったら死ぬのは無駄」だと健康なときに考えるのはたやすい。しかし、いざ自分がその立場になってみたときに、果たして同じような決断を下せるか。私には自信がない。

  

尊厳死と安楽死

日本は安楽死は、比較的早くから行われている国家である。この点については、尊厳死を政策的なテーマに上げている津村啓介議員と山下貴司法務大臣の質疑(衆議院法務委員会 平成30年11月13日)から読み解いていこう。 

この質疑については、実際に議事録を読むことをおすすめしたい。

津村啓介衆院議員

 尊厳死、安楽死の法制化、終身刑の導入、そして外国人労働者問題、本日は、以上三つのテーマについて質問いたします。

大臣、まず冒頭伺いますが、尊厳死と安楽死、前者を消極的安楽死、後者を積極的安楽死という言い方もございますけれども、この二つはどう違いますでしょうか。事前の質問通告二問目の肝の部分ですので、ちょっと縮めた質問にしておりますけれども、短くお答えください。

 

山下貴司法務大臣

まず、安楽死というものの中には、例えば積極的安楽死というものがございます。これにつきましては、一般的に、苦痛の甚だしい死期の迫った方について、その苦痛を軽減又は除去するために死期を早める措置をとる場合をいうものというふうに理解しております。
 そして、安楽死の中の消極的安楽死というものがございますが、これにつきましては、例えば輸血であるとか強心剤の注射を続ければ、延命、命を延ばすことはできる、ただ、これは患者の苦痛の時間を延ばすだけであると考えてこれをやめる場合のように、死期が迫っていて、しかも耐えがたい苦痛のある患者について、患者や近親者の意思で積極的な治療を施すのをやめる、こういったような場合が消極的安楽死だと言われていると理解しております。

 

津村啓介衆院議員 

簡潔な御答弁、ありがとうございます。

安楽死、尊厳死をめぐりましては、このほかにも、自殺幇助の問題、あるいは医療現場で行われている緩和的鎮静、セデーションのテーマなど、幾つかございますけれども、本日は、焦点を絞る意味で、今大臣が二つに分けていただきました消極的安楽死と積極的安楽死、そのうちの消極的安楽死に当たります尊厳死に絞って議論を進めたいというふうに思います。

大臣、現在、我が国において、今大臣がお述べになりました延命治療の中止、いわゆる尊厳死は法律で認められていますか。

 

山下貴司法務大臣

実は、尊厳死という言葉の定義も、必ずしも消極的な安楽死と一致しているかという問題がございまして、例えば、尊厳死につきましては、本人の生前の意思等に基づき、生命維持装置によるほかの延命の道がない場合に、施さないか、取りやめて尊厳に満ちた自然死につかせるものというふうに理解をされております。

ただ、延命の道がない場合にこれを施さないということが、要は不作為に基づくその死期を早める行為になるということになるのであれば、これはさまざまな、同意殺人であるとか、あるいは例えば自殺関与であるとかということの構成要件に当たり得る可能性はあるということで、慎重な検討が必要であるというふうに考えております。 

この答弁で分かる通り、尊厳死と安楽死というのは違う概念だ。一般的に、尊厳死というのは自らの意思で行われるものであるが、安楽死はより広範な物を含む。

 

津村啓介衆院議員

日本では、一九七〇年代、世界の潮流にほぼ平仄を合わせるように、安楽死あるいは尊厳死の議論がスタートをしております。

九一年の東海大学の事件、九六年、九八年と、安楽死あるいは尊厳死をめぐる医療現場での幾つかの事件がございまして、残念ながら、その後、この議論はタブー視をされるようになっております。

厚労省が二〇〇六年の富山県での事件をきっかけに動きをしまして、終末期医療の決定プロセスに関するガイドラインを作成、〇七年のことであります。ここに書いてありますように、消極的安楽死については容認の方針ということで一般的には理解をされているところでございます。

 

ただ、幾つか問題点がございます。

確かに、この二〇〇七年の厚労省のガイドラインが策定されて以降、延命治療の中止によって医師が刑事責任を問われた事例は起きていません。

しかしながら、このガイドラインの中身が、判断の手順を示すという体裁になっておりまして、刑事免責の要件が必ずしも明確ではない。

ここで指す「東海大学の事件」とは、家族の希望により薬剤によって患者をしに至らしめた大学助手が殺人罪で起訴された「東海大学安楽死事件」のことを指す。

 

患者本人の意思確認がなかったとして、被告人は有罪となった。判決では、

  • 患者が耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいること
  • 患者は死が避けられず、その死期が迫っていること
  • 患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くしほかに代替手段がないこと
  • 生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること

の4つが「積極的安楽死として許容されるための4要件」として示され、以降もこれが違法性阻却のための判例として用いられている。

 

尊厳死という場合、患者自らが安楽死を執り行うだけではなく、意識のない患者を事前の同意に基づいて死に至らしめるケースも想定される。いずれにせよ、本人の同意が極めて重要だ。

一方、安楽死は、本人の意志確認がないまま、家族の同意によっても延命を中止するケースも含む。

この場合、当然違法性阻却事由(殺人罪としての違法性がないと証明する理由)が必要であり、それを明確に立法化するためには、極めて長いプロセスが必要になることが、このやりとりでわかるのではないだろうか。

山下貴司法務大臣

尊厳死につきましては、これが法的に認められるかどうかを含め、医学あるいは道徳、宗教、倫理観等々、深く密接にかかわる本当に難しい問題でございます。刑事責任の存否という刑事法の側面だけを取り上げて一面的に論ずるということは適当ではないのではないか。その意味で、幅広い観点から議論され、広く国民のコンセンサスを得るべきであるというふうに考えております。

山下法務大臣が言う通り、「人がいかに死ぬべきか」というのは、決して簡単に論じられる話ではない。

法制化までにはかなり高いハードルがある。次はこれを見ていく。

 

尊厳死の法制化に向けて

実は、「尊厳死法制化を考える議員連盟」という議連は存在し、すでに法案の骨子は出来上がっている。

尊厳死法制化を考える議員連盟

終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案(仮称)

(趣旨)

この法律は、終末期に係る判定、患者の意思に基づく延命措置の中止等及びこれに係る免責等に関し必要な事項を定めるものとする。

 

(基本的理念)

終末期の医療は、延命措置を行うか否かに関する患者の意思を十分に尊重し、医師、薬剤師、看護師その他の医療の担い手と患者及びその家族との信頼関係に基づいて行われなければならない。

終末期の医療に関する患者の意思決定は、任意にされたものでなければならない。

終末期にある全ての患者は、基本的人権を享有する個人としてその尊厳が重んぜられなければならない。

(後略)

 

議連の会長は国民民主党の増子輝彦参院議員で、超党派の議連であるようだ。

この法案に対して、日本弁護士連合会の宇都宮健児会長(当時)が、このような声明を出している。

少し長いが、重要なので、以下抜粋する。

患者には、十分な情報提供と分かりやすい説明を受け、理解した上で、自由な意思に基づき自己の受ける医療に同意し、選択し、拒否する権利(自己決定権)がある。

 

この権利が保障されるべきは、あらゆる医療の場面であり、もちろん、終末期の医療においても同様である。また、終末期の医療において患者が自己決定する事柄は、終末期の治療・介護の内容全てについてであり、決して本法律案が対象とする延命治療の不開始に限られない。特に、延命治療の中止、治療内容の変更、疼痛などの緩和医療なども極めて重要である。

 

疾患によって様々な状態である終末期においては、自ら意思決定できる患者も少なくないが、終末期も含めあらゆる医療の場面で、疾病などによって患者が自ら意思決定できないときにも、その自己決定権は、最大限保障されなければならない。しかるに、我が国には、この権利を定める法律がなく、現在もなお、十分に保障されてはいない。

 

本法律案が対象とする終末期の延命治療の不開始は、患者の生命を左右することにつながる非常に重大な決断であるところ、患者が、経済的負担や家族の介護の負担に配慮するためではなく、自己の人生観などに従って真に自由意思に基づいて決定できるためには、終末期における医療・介護・福祉体制が十分に整備されていることが必須であり、かつ、このような患者の意思決定をサポートする体制が不可欠である。しかしながら、現在もなお、いずれの体制も、極めて不十分である。

日本弁護士連合会:「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案(仮称)」に対する声明

国会において、反対意見も多数述べられている。

長妻昭議員の意見を引く。

私自身は、昨今の風潮で、終末期医療は金がかかるから余り延命治療をしない、延命治療をしないことがイコール尊厳ある死である、こういう短絡的な議論に非常に危機感を持っているわけで、そんな単純な話じゃない。

延命治療をすることを望んでいる御家族も本人もおられるわけでございまして、ですから、本当に日本は、今全く議論がないまま来ておりますけれども、死生学あるいは死生観、そしてQOD、これをよくよく考えて、本当に効果のある医療、国民の皆さんが幸せを感じられる医療、これをつくり上げていく。安易な安楽死や尊厳死の議論には絶対くみしてはならない

 

平成29年06月02日 衆議院厚生労働委員会

 

続いて、薬害エイズ事件の当事者である川田龍平議員。

安楽死や尊厳死といったこういった議論にもやっぱりつながる中に、本当にそれが、全ての人が平等に生きられる社会というものが前提としてそれがある上での議論なのか、それともやっぱり切捨てと言われるような、そういう命の切捨てにつながるような制度として安楽死や尊厳死というものが用いられてしまうのではないかという本当にその怖さ、恐怖、やっぱりそれは当事者だからこそ感じるものかもしれません。

 

平成28年11月08日 参議院厚生労働委員会 

 

なぜ国会議員は「安楽死の話をしたがらない」のか、という古市氏と落合氏の疑問に答えるとすれば、それは、生と死というのは人の究極の問題であり、決して医療費削減という文脈だけで語ることが出来る問題ではないからだ、といえる。

 

生者を選別するべきではない

尊厳死に関して最も重要なことは、いかに本人の自己決定が十全に行われているか、という点である。

尊厳死を望む人がいることは理解できる。苦痛に満ちた生を終わらせる選択肢が存在することは重要であると思う。

 

しかしながら、宇都宮氏が述べたとおり、尊厳死の選択が、社会的な圧力や財政的な問題などの要素によって左右されることがなく、真に自分自身の選択として行われることが最も重要なのだ。

とすると、古市氏のように「安楽死を認めれば医療費を削減できる」という発言は、この尊厳死を実現する環境を妨げるものであると言える。

 

落合氏の下記の発言についても、一言述べておきたい。

終末期医療の延命治療を保険適用外にするとある程度効果が出るかもしれない。たとえば、災害時のトリアージで、黒いタグをつけられると治療してもらえないでしょう。

それと同じように、あといくばくかで死んでしまうほど重度の段階になった人も同様に考える、治療をしてもらえない――というのはさすがに問題なので、コスト負担を上げればある程度解決するんじゃないか。延命治療をして欲しい人は自分でお金を払えばいいし、子供世代が延命を望むなら子供世代が払えばいい。今までもこういう議論はされてきましたよね。

トリアージはあくまで災害など、時間的リソースが限られた中で最大限の人命救助を行うためのメソッドであり、財政的に負担を重くすることで事実上延命治療を打ち切る、という議論とは全く別のものである。

前述の通り、災害時はあくまで「時間的リソースが限られているから」トリアージを行うのであって、平時とは全く異なる。

トリアージは、「誰を治療し、誰を治療しないか」を選ぶ立場に、自らを置くための道具ではない。

 

そもそも、トリアージがなぜ生まれたのかご存知だろうか。トリアージの祖として知られるのは、軍医としてナポレオン時代のフランスに従軍した、ドミニク・ジャン・ラレィである。

Dominique Jean Larrey - Wikipedia

ラレィは、階級や国籍に関係なく、負傷者の重症度と医療の必要性に応じて負傷者を治療し、負傷者をトリアージする規則を定めました。フランス軍とその同盟国の兵士と同じように、敵軍の兵士も扱われました。

 

そもそも、軍では階級が上の人間ほどすぐに治療されるのが一般的であった。それを、優先度で分けたのがラレィだったのだ。

かつて人種や階級を隔てなかったトリアージが、「お金があれば延命していい」などという主張に引用されるのは、皮肉としか言いようがないのではないか。 

 

薄皮一枚の地獄

少し本題から外れるが、平成20年の調査では、高齢者と現役世代の負担に対する考え方は、世代によってそれほど大きな違いがなかった。(出典 : 社会保障制度に関する特別世論調査 

人は年齢にかかわらず、「自分が社会のお荷物になりたくない」という気持ちを持っている。そのような気持ちに従って、延命治療を拒否する人もいるだろう。

しかし、「社会の役に立つものが生き残れる」という考えは、仮に本人がそう意図していないにせよ、優生学と薄皮一枚で隣り合っている。

災害時に関してはもうご納得いただいているわけだから、国がそう決めてしまえば実現できそうな気もするけれど。

そういったことも視野に入れないといけない程度に今、切羽つまっているのでは。今の政権は長期で強いしやれるとは思うけど。論理的には。

落合氏は、トリアージと比較した上でこうも述べているが、緊急搬送時に優先順位をどうつけるかということは納得しても、財政的理由で治療を受けられないことに納得する人間は少ないのではないか。

また、国家がその権力を利用して生者を選別する、という思想そのものが、優生学のバックボーンにある感覚と極めて近いことは指摘せざるを得ない。

 

「本人が死に方を選べる」制度としての尊厳死を実現するために最も必要なのは、社会のお荷物であろうと、いかに財政的に負担になろうと、本人が望むだけ生きられる社会である。

そしてそれは、この対談で語られたような延命を軽視する社内では、決して実現しないし、させてはならない。

 

両氏の対談における発言は、このような日本の安楽死・尊厳死・終末期医療の議論の積み重ねに関して、真摯に学んだうえで出てきたものとは言えないだろう。

むしろその発言は、「生活保護の不正受給」を追求した論調と同じ、徴税や予算の不公平感に基づいているように見える。

 

私は、両氏に悪意があってこのような対談になったとは思わない。批判されれば誤読だと言いたくなる気持ちもあるだろう。彼らは素朴に、財政のことについて考えただけである。

しかし、このように、深い知見も、関連した知識も、議論の積み重ねも、リサーチもなく、素朴に表出される共同体感覚、社会に不要なものを切り捨てていく感覚とでも呼ぶべきものが、尊厳死が実現される社会を妨げているのだ。

 

最後に、私がこの対談を見ていてふと思い出した、萩原朔太郎の「自殺の恐ろしさ」を引用する。

自殺そのものは恐ろしくない。自殺に就いて考へるのは、死の刹那の苦痛でなくして、死の決行された瞬時に於ける、取り返しのつかない悔恨である。今、高層建築の五階の窓から、自分は正に飛び下りようと用意して居る。遺書も既に書き、一切の準備は終つた。さあ! 目を閉ぢて、飛べ! そして自分は飛びおりた。最後の足が、遂に窓を離れて、身體が空中に投げ出された。

 

だがその時、足が窓から離れた一瞬時、不意に別の思想が浮び、電光のやうに閃めいた。その時始めて、自分ははつきり[#「はつきり」に傍点]と生活の意義を知つたのである。何たる愚事ぞ。決して、決して、自分は死を選ぶべきでなかつた。世界は明るく、前途は希望に輝やいて居る。斷じて自分は死にたくない。死にたくない。だがしかし、足は既に窓から離れ、身體は一直線に落下して居る。地下には固い鋪石。白いコンクリート。血に塗れた頭蓋骨! 避けられない決定!

 

この幻想の恐ろしさから、私はいつも白布のやうに蒼ざめてしまふ。何物も、何物も、決してこれより恐ろしい空想はない。しかもこんな事實が、實際に有り得ないといふことは無いだらう。既に死んでしまつた自殺者等が、再度もし生きて口を利いたら、おそらくこの實驗を語るであらう。彼等はすべて、墓場の中で悔恨してゐる幽靈である。百度も考へて恐ろしく、私は夢の中でさへ戰慄する。 

 

http://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/1790.html

若く健康な人間が、「延命治療は不要」と考えるのは、ある意味では当たり前かもしれない。

しかし、そのような空気が蔓延した世界で自らが安楽死を強制される社会は、私にとっては地獄に見えるのだ。

 

あらゆるものを奪われた人間に残されたたった一つのもの、それは与えられた運命に対して自分の態度を選ぶ自由、自分のあり方を決める自由である。

ヴィクトール・フランクル『夜と霧』