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大義なき解散、大義なき解党 ー 民進党の解党に寄せて

民進党が事実上の解党に踏み切った。

 

前回政権で、現実性のないマニフェストを提示して期待を裏切ったという点を踏まえて、愚直に「All for All」の政策を訴えていくように見えた前原新体制は、結局のところ民進党という党を解党することで終わってしまうようだ。

民進党が解党するべきではない、ということは拙稿にて述べた。このように政党を作っては壊し、ということをしていては、日本の政治は時計の針を逆に進めるだけであると考えている。 

 

 

一国の野党第一党が、政策も何も決まっていない政党に吸収合併される(しかもその政党が躍進しそう)というのは、端的に言って国家の恥であり、危機ではないか。

このようなプロセスでもし政権交代が起こるとしたら、行き当たりばったりの政党に政権を委ねることになるだろう。

 

安倍政権が立憲主義に反し、また様々な形でプロセスを無視した政権であったことは論を待たないが、その政権を倒すためにそれ以上にプロセスをすっ飛ばしたことをやることが、本当に国益に資することだろうか。

前原民進党にとって、現実的に選挙に勝つ上ではこの選択肢が最も正しかったのだろう、とは理解している。

だとしても、「ただ政敵に勝つためだけの解散」を批判した口で、「ただ政敵に勝つためだけの解党」を擁護することは出来ない。大義なき解散が許されないなら、同時に大義なき解党も許すべきではないからだ。

 

 

日本政治の構造

直近数年間の総選挙で、最も低かった比例の得票数を比べてみよう。

 

民主党・962万票 vs 公明党・711万票 + 自民党・1662万票  = 2374万票

(いずれも2012年総選挙)

その差は1412万票となる。自民党は2009年のいわゆる「政権交代選挙」でも1800万票を獲得している。「何があっても自民党に入れる/公明党に入れる」基礎票が堅いわけだ。対して、民進党はせいぜい1000万票くらいしか基礎票がなく(2013参院選では850万票程度)、それすら今回の選挙では減らすと思われていた。

民進党は結党以降左派的色彩を強め、政策的にも左派リベラルな物を掲げた民主党・民進党の支持は伸びず、逆に共産党に支持を奪われる結果となったからだ。

 

自公政権に対峙する政党は、この1400万票あまりの基礎票の差を埋めるという困難なミッションと向き合うことになる。

日本の左派リベラルは弱く、またハードレフトは共産党に固められているため、必然的に左派的な政策だけでは得票できない。結果として旧民主党にせよ、新進党にせよ、政策的には混沌とした物になる。

最終的には日本の最大を占める「無党派」、つまり政治に対しての関心が薄い層に対して訴えていくため、ポピュリズム的に総花的・八方美人な政策を掲げることになる。その結果が2009年の民主党の「埋蔵金」を当て込んだマニフェストであった。

これは55年体制以降一貫して続いている日本の構造的な問題である。 

 

本来であれば、この基礎票の差を愚直に埋めるために、整合性のある政策を訴え、支持を広げていくのが野党の役割だったはずだ。

イギリス労働党が18年に渡り政権から遠ざかっていたが、ブレアという新しいリーダーを選びその後の長期政権の礎としたように。

何度も語るとおり、政党というのは、ともすれば短期的な視野に陥りがちな議員をまとめ、一貫性を持ち、長期的視野で政権交代の準備をすることが役割なはずだ。

数年で作ったら潰れたりする政党が長期的な視野を持つことは不可能だ。

 

メディアの責任も重い。

テレビをつければ、小池知事や前原代表のことを「勝負師だ」と褒め称えている。こういう人は安倍政権の解散に関しても「勝負勘」だなんだと語っている。

しかし、選挙というのは丁半博打ではない。「これで選挙が面白くなった」と喜ぶのは、明らかに本末転倒ではないか。

メディアが本来伝えるべきは、どっちが勝つかな?負けるかな?なんていうスポーツコーナーまがいのことではない。CNN であれ BBC であれ普通はそこを突っ込んで聞く。日本のメディアは前原氏にも小池氏にも優しい。「政策を投げ捨てるなんて恥を知れ」と聞く人が一人くらいいてもいいはずだが、誰もいない。

政局が盛り上がれば猫も杓子も歓迎する「政局屋さん」たちの罪は重いのではないか。

 勝負だなんだと言う前に、原理原則的に、選挙というのは政策を選ぶものであるということを、少なくともメディアの側は徹底して訴えていくべきではないか。

 

「政権担当能力」と小池知事

安倍総理の五年間の最大の成果は、日本の為政者は、国民の疑問や不満に真摯に答えずとも政権の運営が出来る、ということを示したことだ。

政権が長期化すると、それに比例する形で政権は強権的になり、仮に一時的にあらゆる手段を使って法案を成立させ、国会を閉じておけば支持率が回復する、という手法を編み出した。

このような手法は長期的に考えれば、明らかに国益を損ねるはずだが、総理はそれでも自分の政権が続き、野党の支持率を落とし続けることが国益である、と半ば本気で信じているフシがあった。

 

ともあれ、それが安倍総理の「政権運営」だった。そして、まさにそのように、いかに質問をやり過ごすか、いかに何も答えずに済ますか、という能力があれば、安定的に政権を運営させられることが証明されてしまった。

とすると、都政で何一つ成果を残さないまま、子飼いの議員を多数当選させ、彼らに対するメディアからの質問すら答えさせない。そんな小池知事のやり方は、「政権担当能力」を証明している、といえるのかもしれない。

私のあくまで個人的な感想を申し上げれば、小池百合子氏の最大のスキルは、嘘をついても支持が落ちず、まるで前言を信じてついてきた側が道化に見える、ということだ。

音喜多駿、若狭勝、細野豪志のように。だから、前原誠司代表が騙されたとしても、決して小池氏の支持が落ちることはなく、ただ民進党が嘲笑されるだけに終わるだろう。そしてその可能性は決して低くはないと考えている。

 

まあ、こんな場末で何を言っていたとしても、何も動かないだろう。

この記事をわざわざ最後まで読んでいる時点であなたも私も変わりものだ。そんな我々とは関係のないところで政治は動いていくのだ。

民進党は変わり者のための政党から、無党派のための「政権交代可能な政党」に生まれ変わるのかもしれない。小池知事のカンバンだけを借りて。

 

しかし、だとすれば一体、党員サポーターを総動員し、「政党の命は理念、政策だ」と言っていたあの代表選はなんだったのだろう?

「勝たなければ何もできない」それは事実かもしれない。しかし、前原氏にとって、自分たちが掲げた政策とはそれほど軽いものだったのか?

それで政権交代をして、一体何を成し遂げられるのか?

 

まあ、そんなことは永田町の人たちにとってはどうでもいいのかもしれない。しかし、与党が「解散に理由なんていらない、勝てそうだからだ」と考え、野党が「解党に理由なんていらない、そうしないと負けるから」と考えたとすれば、それはやはり、国家としての敗北といえるのではないだろうか。

憲政史上最悪の解散。今こそリベラルからの改憲を

御存知の通り、安倍晋三総理大臣は、どうやら国会の「冒頭解散」を決断したようだ。所信表明すらしない解散。まさに史上最悪の名にふさわしい。

 

臨時国会を開かない、違憲状態での選挙

野党四党は、六月の段階で臨時国会の開会要求を行っていた。

「加計」疑惑解明へ4野党/臨時国会開会要求へ/街頭演説で小池氏報告

 

憲法五十三条には、このような規定がある。

内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。

これは義務である。しかし、日次の定めがないことを理由に、内閣はずっと臨時国会の開催を引き伸ばしてきた(日本の国会が過剰に閣僚を縛り付けており、外遊などがしづらいという点もある。その点は改善が必要)。

いうまでもなく、これは立法府の行政府に対する監視機能を担保するという点で、絶対に守らなくてはならない憲法上の要請である。

 

にも関わらず。安倍内閣は、どうやら冒頭解散、しかも史上初の「所信表明演説すら行わない解散」を行うようだ。

少なくとも…どのような理屈をつけられたとしても、新しく選出された内閣が、国民の信を問う総選挙の前に国会で所信表明を述べない理由というのは、およそ考えられない。もしなにか思いついたら教えてほしい。

 

普通であれば、憲法上の要請に従い、所信表明、代表質問、予算委員会の開会して一定期間が経ってから、選挙を行うというのが筋である。

例え、解散権を無制約に認めるにせよ、普通新しく内閣を作ったのであれば、所信表明と代表質問くらいはするだろう。権力を守るためとは言え、恐るべき姑息さである。

 

選挙の勝敗で違憲が解消されるものではない

「そんなことを言うなら、選挙で落とせばいいじゃないか」というような言説が存在する。

しかし、健全な憲法と国家への成約がない、ムッソリーニ率いるファシスト党は、選挙制度や政治制度を良いように作り変えて、選挙で圧勝した。

そのような独裁と圧政、成約なき肥大した権力を防ぐために、立法府の監視があり、また立憲主義が存在するのだ。

 

だからこそ、当たり前の話ではあるが、憲法というのは国家が国民のために機能するためには絶対に遵守すべき規程である。

そして、本来選挙というのは、与野党がきちんと政策を精査する期間をおいて、それを国民に提示して信を問うべきものだ。

もちろん権力闘争であるから、認められた範囲で戦略的に解散権を用いることは(議論はあるにせよ)違憲ではない、と考えられている。しかし、今我々が考えるべきなのは「本来国会はどうあるべきか」ということではないか。

 

リベラルな立場からの改憲を

さて、では野党は一体何をすべきなのだろうか。この記事で提案するとすれば、下記のような二つの「リベラルな立場からの改憲」を行うことだ。

一つだけ自民党を評価するとすれば、極めてアクロバティックで、ガラス細工のようなやり方であるが、紙の上では憲法上の成約を一応クリアしているということだ。

また、この現状を見れば、やはり憲法というものは、その理念を実現するため、具体的な項目を書き込む必要がある、という議論になるだろう。

 

改憲は不要である、という立場もあるかもしれないが、そもそも憲法とは権力を制限するものであり、日本の行政府はあまりにも制限されている要素が少ない。

むしろリベラルな側から積極的に制限すべき点を上げていく必要がある、というのが個人的な立場だ。

通年国会の導入

先日、下記のような記事を書いた。これは、野党の審議拒否を無くすためには、通年国会の導入が不可欠である、という主張だ。

 

これは、旧民主党が提案していたことでもある。(岡田克也氏が長年提唱していた)。また、古くは旧田中派の主張としても知られていた。

 

そもそも、日本のように会期制を採用している国は現在では殆ど無い。そもそも、通常国会が百五十日しかないのも不思議な話である。

ミサイルの問題や、突然の震災など、突発的に国会で話し合わなければならないテーマは常に起こりうる。一定期間の長期休暇はあってしかるべきだろうが、国会自体は常に開いておくのが道理ではないだろうか。

  • 総理の外遊などの日程が制約される
  • 官僚の負担が増える

などの議論があるが、そもそも内閣は統一見解を出すのだから、国会にいちいち総理や大臣が必ず出席する必要はない。

代表質問などトップ同士質疑できる場所をより多く設けた上で、総理や大臣に関してより自由にできる時間を増やすべきではないだろうか。

また、官僚の負担軽減は、通年国会とは別の点で議論されるべきである(議運の機能強化など)

トップの資質や姿勢を見るのであればクエスチョンタイム(代表質問)で十分であるはずだし、月に一回きちんとクエスチョンタイムを開く、という政治改革の理念に立ち返るべきだ。

 

解散権の成約

もう一点は解散権の成約である。このところ、解散権に関する議論が深まってきた。流石にこの解散はおかしい、と感じる人が多いのだろう。

宮澤喜一・元総理大臣も「解散権は好き勝手に振り回してはいけない。あれは存在するが使わないことに意味がある権限で、滅多なことに使ってはいけない。それをやったら自民党はいずれ滅びる」と話したことがあるという。 

いわゆる七条解散というのは、天皇の国事行為である。実質的には内閣が国事行為を定めているとは言え、純然たる内閣の権限として憲法上認められているものではなく、法学者の間でも意見が別れている。

また、「国民のために」と書かれているように、本来これは国民の強い意思や要請によって行われるべきものだ。

天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。

2. 国会を召集すること。

 

実際のところ、衆議院の任期が4年であるにも関わらず、任期を全うした議員は殆ど無い。これでは政策が長期的に行われるはずもない。日本以外の殆どの諸外国は、イギリスなどを含め解散権を制約するか、または制約する方向での法改正を検討している。

 そもそも、四年間しっかりと任を果たすことを前提に衆議院議員は選ばれるべきであり、解散というのは「よほどの事態」つまり、国民からの強い要請があったときのみ行うべきことではないだろうか。

憲法上の制約が必須であると考える。

 

終わりに

様々なことを述べたが、解散権を制約するためには国民の声が盛り上がらないと難しいのが事実である。このような解散が問題であると考えれば、投票に行く。地域の議員の声に耳を傾け、違憲を付託する。そういった地道な努力のもとにしか、権力の監視は成り立たない。

一歩一歩進んでいるうちに逆走するベルトコンベアに乗っている、ということもあるだろうが、それでも一歩一歩進まなければ政治というものは変わっていかないのだ。

 

民進党・蓮舫代表が辞意を表明。民進党議員の様々な反応【まとめ】

 「民進党の代表を引く決断をした。先ほど開いた臨時の執行役員会で(辞任が)了承された」と蓮舫代表は報告。

 

その上で

「25日に両院議員懇談会が開かれた。都議選の総括並びに野田幹事長の重い決断を伝え、議員の皆さんの率直な思いに耳を傾けた。そして昨日1日どうすれば遠心力を求心力に変えることができるのか熟考させていただいた。その時に考えたのは人事ではなく、自分自身をもう一度見つめなおさなければいけないと思った」

「攻めの部分ではしっかりと行政監視をしてきた。今の安倍内閣のお友達を見ているかのような政治を、えこひいきや不平等、行政がゆがめられたとか途中経過が見えない政治は絶対許してはいけない。ただ一方で、受けの部分に私は力を十分に出せなかった」

「いったん引いて、より強い受け皿になる民進党を新たな執行部に率いてもらう。これが最善の策だ。民進党のためでも私のためでもない。国家の民主主義のために、選択肢として2大政党制の民進党を作り直すことが国民のためになる」

と辞任する決断をした理由を述べた。

 

 

民進党議員・候補者の反応

 

 

 

辞任に寄せて

私は、今回の辞任はとても残念である。

なぜこのタイミングなのだろう、という思いもある。様々な対応が後手後手に回った印象は拭えないし、今後の党運営にも決していい影響は与えないだろう。

何より、このタイミングで「蓮舫降ろし」が起きたことこそ、民主党から引き続き残る悪弊であるのではないか。

一致結束すべきときにまとまれない、悪い体質が全面に出てしまった。

 

岡田執行部〰蓮舫執行部は、個々の選挙では共産党との選挙協力もあり、当初予想より善戦しているものの長期的な低落傾向に歯止めがかかっていない。

 

蓮舫代表はいろいろとご苦労をされたのだろうと思う。台湾姓を用いながら、国籍の件などで攻撃されるのは心労もあったと想像する。

まだ政治家として老け込む年ではない。捲土重来を期待したい。

 

一番じゃなきゃダメですか?

一番じゃなきゃダメですか?

 

民進党は絶対に解党すべきではない

桜井充参院議員=宮城選挙区、当選4回=は懇談会後、記者団に「全然反省が見えない」と述べ、離党を検討していることを明らかにした。

民進党の解党論が出ている。私は民進党は絶対に解党するべきではないし、解党することもないだろうと考えている。また、民主党政権に在籍していた人間がそのようなことを発言するのもまた、愚かなことだと思っている。

新進党の解党から二十年。日本政治は果たして前に進めたのだろうか。

民主党政権の失敗

民主党政権は失敗した。安倍政権は腐敗したが、民主党政権は失敗した。

もちろん、部分的に評価できる点がないわけではないが、全体としてはそれが国民の評価である。

 

民進党の支持率が上向かないのも、多くは民主党政権の失敗に起因している。

「支持率が上がらないから民進党は解党すべきだ」というのは、すなわち「民主党政権の失敗を忘れてほしい」というのと同義である。

これほど国民を馬鹿にした話はないのではないだろうか。

民主党政権の経験者が解党を口にする愚

桜井充参院議員は、菅内閣で財務副大臣、野田内閣で厚生労働副大臣を務め、海江田執行部では政調会長を務めた。解党的出直しを口にする原口一博議員は総務大臣だった。

先ごろ離党した長島昭久議員は防衛副大臣を、松本剛明議員は外務大臣まで務めていた。

彼らは間違いなく民主党内閣にいた。だからこそ、民主党政権の失敗に責任がある議員たちだ。

 

民進党が解党したところで、彼らは議員として残る。「私は議員として無能だから議員辞職します」というならまだ話は理解できるが、政党が変わっても議員が変わらなければ、それはただの看板の架替にすぎない。

 

「期待が上がらないから解党する」というのは、「過去の失敗を忘れてください」ということでしかないのだ。

政党はただの入れ物である。一回使って汚れたから捨てて新しいのを買い直す。そうすればまた料理の見栄えがするだろう、と考えるのは愚かなことだ。

 

議員が人であり、政党が議員の入れ物である以上、完璧に素晴らしいオプションなどは存在しない。少しずつ変えていくしかないのだ。

民主党が結党して二十年。ようやく民主党がどういう政党であるかが国民に十分周知されてきたのではないか。

 

  • 連合という労働組合をバックに持つ
  • 比較的左派だが、様々な思想の議員が存在する
  • 党内議論はオープンだが、議論がまとまらない
  • 党内の権力や執行部の求心力は弱い

これが民進党のありのままの姿である。

かつて新進党という政党があったが、新進党も同じであった。新進党を解党した結果、残ったのは新進党から創価学会を抜いただけの政党になってしまった。

日本の野党は「この程度」なのである。実像が理解されたのだ。私は、そのような実像を知ってなお、自民党に代わる選択肢は必要だと思っている。 そして、有権者も、野党に過度な期待を持つこと無く、フラットな視点で、双方の良い点と悪い点を比べるべきであると考えている。

実像が理解されたから再びまやかしの新鮮なイメージを付けるために解党する、というのは時計の針を元に戻す行為だ。そのような政党が政権を握ったところで、ふたたび細川政権や鳩山政権の失敗を繰り返すだけではないか。

 

政党は連続性と長期展望で成り立つ

一体、たかが一回の選挙に負けただけで解党を口にする議員が考える未来へのヴィジョンとは何なのだろうか。

政治とは、本来50年100年スパンで物事を考え、長期的に必要な政策を行うことが必要である。だからこそ、欧米の主要な政党は長い歴史を持つのである。

 

労働党はキャラハン首相の敗北から、ブレア首相の誕生まで十四年もかかった。その間にブレアは「第三の道」という政策ヴィジョンを生み出して国民の支持を得た。

その長いブレア政権の間、保守党は苦しみながらも、キャメロンという若きリーダーを生み出し、安定政権を築いた。

 

当たり前だが、先進民主主義国家では「忘れてくれ」は成り立たない。過去の政権の失敗に責任を持ち、それに対する改善案を出してこそ初めて政権政党となりえるからだ。

自民党も、民主党政権の間、谷垣総裁が地道に組織をまとめ、与党の失敗を追求するという当たり前のことをし、党内で民主的に決まった総裁のもとに総選挙を行い勝利した。

 

政権政党とはそういうものである。そして、日本はその政権政党を生み出す事ができるのか、それともまた、九十年代のように誰が今どの政党にいるのかもわからないような状態に逆戻りするのか、の分水嶺にいる。

 一回の選挙に負けただけで解党だと騒ぎ、党の歴史をなかったことにするような議員が、なぜ天下国家の未来を語れるだろう?

 

過去に責任を持てないものが未来に責任を持てるはずがない

新党が出来て新しい人材が政界に入るもの悪いことではない。

かつて新党ブームが起きた時には、

  • 小池百合子
  • 枝野幸男
  • 茂木敏充
  • 前原誠司
  • 野田佳彦

といった、今もなお各政党で活躍する人材を輩出した。細川政権自体の成否は別にして、このように新しい人材が政治に関わるのは決してマイナスばかりではないと考えている。

小泉チルドレン、小沢チルドレンからも、未だしぶとく頑張る議員はいる。新陳代謝は必要である。

 

しかし、民主党政権の失敗に責任がある議員たちが、まるで新しい政治の始まりであるかのように新党を作るのは滑稽でしかない。

民進党の議員は民主党政権の過去に責任を持たなくてはいけない。その過去に責任を持たずに未来を語る資格はない。

 

 

民主党政権 失敗の検証 - 日本政治は何を活かすか (中公新書)

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政権交代 - 民主党政権とは何であったのか (中公新書)

政権交代 - 民主党政権とは何であったのか (中公新書)

 

【閉会中審査】混沌と混乱、崩壊する論理。加計問題に関する安倍答弁の問題点をまとめる

安倍総理が出席の上で行われた衆院予算委員会の閉会中審査は、一言で言うと「混沌」だった。

 

小野寺五典議員の質問中で加戸前愛媛県知事が「正攻法ではムリなので通用門から入った」などの爆弾発言をするハプニングもあり、議論は序盤から紛糾。

今井雅人議員の質問中に「こんな人達」発言を謝罪するなど安倍総理は概ね低姿勢、かつ政府は一貫して「記憶にない」という形で防戦する格好となった。

 

様々な発言があったが、大きく分けて、今回最も注目された点は三つ。

  • 「加計学園が申請していることは、戦略特区が決定するまで知らなかった」
  • 「加計理事長におごったことも奢られたこともある」
  • 「陸自の日報問題についてはまだ報告を受けていない」

このどれも、内閣の存亡を揺るがす恐ろしく重要な問題である。

 

 

民進党・大串博志議員の質問

次々と無くなる和泉補佐官の記憶

 

「加計学園の申請は1月20日まで知らなかった」

※すぐに検証される

 

民進党・玉木雄一郎議員の質問

 

 

共産党・笠井亮議員の質問

 

安倍総理の答弁に関する総評

安倍総理の答弁は既に崩壊している。もはや表面的な整合性も付けられず、それぞれの答弁が全く信用を取れていない状態だ。

まず臨時国会を開いた上で、和泉補佐官や前川前事務次官の証人喚問を含め、真偽を明らかにする必要がある。また、なにより必要な加計理事長の参考人招致が行われていないことは大きな問題である。

 

 

安倍三代

安倍三代

 
安倍晋三 沈黙の仮面: その血脈と生い立ちの秘密

安倍晋三 沈黙の仮面: その血脈と生い立ちの秘密

 

稲田大臣の日報問題、シビリアンコントロールを揺るがす事態に

渦中の稲田大臣が会見を開き、辞任を否定した。

 

稲田大臣が会見を開く

 「私は徹底的な事実関係の解明を指示しており、必要があれば喜んで協力する」。稲田氏は21日の記者会見で、こう語った。日報問題の特別防衛監察を実施している防衛監察本部の聴取に、積極的に応じる姿勢を示すことで、自らの主張が正しいとアピールする狙いが透ける。


 陸自は監察本部の聴取に対し、日報データが見つかったことを2月中旬に稲田氏に報告したと説明している。稲田氏は通常国会での答弁も含め「報告はなかった」と一貫して否定。監察結果の公表時期について、防衛省は当初検討した21日を見送り、週明け以降に持ち越した。


 日報問題への稲田氏の関与を伝える報道に関し、防衛官僚には「責任を押し付けられることを恐れた陸自のリーク」との見方が強い。8月3日には内閣改造を控えており、稲田氏に対しては与野党に交代論が広がる。
 文民である政治家が自衛隊を指揮・監督する民主主義の原則からして、陸自が閣僚人事に影響を及ぼそうとすれば行き過ぎだ。自民党国防族からは、稲田氏と陸自の確執に「文民統制が利いていない、という議論に発展しかねない」と危惧する声が漏れる。

 

当初より問題を追求してきた布施さんの反応

 

国会クラスタの反応 

 

稲田日報問題は、稲田朋美という一政治家の問題だけではなく、もはや日本の政軍関係の危機と呼べる問題となっている。

今後もこの問題については注視していきたい。

 

シビリアンの戦争――デモクラシーが攻撃的になるとき

シビリアンの戦争――デモクラシーが攻撃的になるとき

 
シビリアン・コントロールとデモクラシー (人間科学叢書)

シビリアン・コントロールとデモクラシー (人間科学叢書)

 

稲田大臣と日報問題、もはや辞任不可避な状態に

 

 

政治家の反応

国会クラスタの反応

  

 

日報問題を追求し続けたジャーナリスト、布施さん

 

 

防衛のことになるとまともな田母神さん 

 

日本の敵

日本の敵

 

二重国籍の人間が国会議員であることが、違法でないという政府答弁

 

www.youtube.com

 

本日、蓮舫代表の記者会見が行われた。これについては、前回問題点などを指摘したので参照されたい。

www.yomu-kokkai.com

 

さて、今回は、昭和五十九年の衆院における二重国籍に関する政府答弁を取り上げる。元の議事録はこちらになる。

 

前提条件として申し上げると、翌年から改正国籍法が施行され、父系主義だった国籍法が父母両系主義になった。これにより、蓮舫氏が国籍取得を行えるようになった。

この答弁は政府解釈の変更がない限り今も維持されていると考えられる。

 

ちなみに、政府委員制度というのは大臣の代わりに役人が応えるという(大臣が不要になる)制度である。国会審議活性化法の施行により廃止された。

政府委員による衆議院での答弁

飯田忠雄衆院議員

 それで、次の第二番目の二重国籍の公民権についてお尋ねをいたしますが、最近我が国の国籍法が改正になりました。父系主義に母系主義も加えまして父母両系主義になりましたので、したがって、従来日本国籍のなかった人が日本国籍を取得することになってまいりました。

 この問題に関連しまして、国籍の問題はこれは国家主権に関連する問題で、各国が自由に自分の立場から国籍法を決めておるわけです。そこで、我が国の国籍法がどうあろうとも、外国で別の国籍法をおつくりになることは自由であります。

 そうしますと、外国の国籍法によって事実上二重国籍となる場合が考えられるわけですが、今日そういうことになるようなおそれのある外国の立法を御研究になっておれば御開陳を願いたいと思います。これは法務省。


政府委員(枇杷田泰助君)

 過日御審議いただきました国籍法の改正によりまして、二重国籍が我が国においてもかなりふえるであろうということが予測されますが、同時に他国におきましても国籍法の改正をいたしますと、それに伴って重国籍が生ずるということは考えられるわけでございますが、ただ、各国の方でこれから例えば父母両系血統主義に改めていくとかということになりますと、将来に向かって重国籍者がふえていくということは当然考えられると思います。

 そういうふうな傾向は血統主義をとっている国におきましては傾向としてありますので、今後ともふえてまいろうかと思います。ただ、過去にさかのぼって父母両系血統主義のようなものを適用していくというようなことになりますと、現在は日本国籍を一つしか持っていない人が重国籍を持つというふうなことも、それはあり得ないわけではございませんが、そのような過去にさかのぼって当然に自国の国籍をも与えていくというふうな改正の動きがあるというようなことは具体的には私どもまだ承知しておらないところでございます。


飯田忠雄議員

 理論的にそういうことがあり得るというお話でございましたが、それではそれでいいんですが、旧国籍法、明治三十二年法律第六十六号というのがございますが、その旧国籍法の第十六条は帰化人、その子、日本人の養子、入夫、こういう者が国務大臣とか大審院長、会計検査院長、帝国議会の議員となることを制限しておるわけです。こういう規定を旧国籍法が定めた理由はどういう理由であるとお考えになっておるでしょうか、お尋ねします。これは法務省、自治省どっちでもいいです。


政府委員(枇杷田泰助君)

 旧国籍法の十六条にただいま御指摘のような条文があるわけでございますが、これは国の重要な意思決定あるいは国権の重要な作用を担当する者につきましては、かつて外国人であったという方については適当でないということを考えてこういう規定を設けただろうと思います。そのようなかつて外国人であった者については適当でないという考え方は、まだ十分に日本人になり切っていないのではないかという危惧がある、そういう者が国の意思を決める重要な地位に立つというふうなことは若干危険ではないかというような発想からこのような規定が設けられたというふうに古い書物などには書いておるところでございます。私どももそういうことで置かれた規定であろうというふうに想像いたしております。


飯田忠雄議員

 それでは、現在の我が国の国情から言いまして二重国籍者、これは前は外国人、まあ前は外国人じゃないとしても現在同時に外国人である、そういう人ですね。日本人であると同時に外国人であるという場合に、旧国籍法で心配されたようなことがないと言い得るかどうか、大変疑問が存在すると思いますが、この点についてはいかがお考えですか。これは法務省にお尋ねします。


政府委員(枇杷田泰助君)

 旧国籍法にはただいま御指摘のような規定がございましたけれども、現在の国籍法にはそのような規定は設けられておりません。さらに二重国籍がふえることになるであろうというふうな予想をしておりますこのたびの改正法におきましても、このような規定を設けることをしておらないわけでございます。

 それは旧国籍法のようなそういう危惧の念というものをこれは持つ必要はないだろう、殊に非常に民主主義というものが強く打ち出されました新憲法下におきましては、そのようなもし他国籍もあわせ持つ者とか、あるいはかつて外国人であった方であっても、これは要するに国民の意思、そういうようなものによって重要な国権の作用を果たす者が選ばれていくということでありますから、そういうところで実質的にチェックできるであろうというふうなことも考慮されているところだと思いますが、現在ではそういうような危惧を法律上とる必要はないという立場にあるものと考えております。


飯田忠雄議員

 二重国籍ということは、御承知のように現在日本人であると同時に外国人だと、こういうことですね。

 日本人と外国人とが同居しているわけなんですが、人間の心というものはなかなか外からわからないんです。

 日本人と外国人が同居している場合に、その人の心は日本人なのか外国の方を向いているのかはっきりしないでしょう。

 そういうはっきりしない人が我が国の総理大臣になる、国会議員になるということでいいのかどうか、日本の政治を左右することになることが、それで日本の国家主権は守られるかという問題に関連するんですが、その点はいかがですか。


政府委員(枇杷田泰助君)

 確かに国の重要な地位に立つということは、国の将来をも決めるようなそういう意思決定をする立場にあるわけでございますので、したがいまして、日本の国というものを考え、そして日本の国民全体が連帯意識を持つ、そういうような考え方の強い方が望ましいことは当然だろうと思います。

 それを二重国籍者であるからといって、当然にそういう考え方がないだろうというふうに一つのパターンを決めて法律上制限をするということまでは必要ないだろう、それは日本国籍を持っておられる方であっても、場合によっては今申し上げましたような点においては十分でないという方もおられるかもしれません

 ですから、それは個々の方の問題であって、法律的に一つのパターンを決めて、そしてある資格を奪うというふうなことはいかがなものであろうかというのが現行法の考え方でございます。

 

飯田忠雄議員

 二重国籍者は日本の国籍の選択宣言をすることになりますね。そういう選択宣言をしないで二重国籍のままでおるという場合、外国の国籍を離脱する手続をとらないような人、こういう人について今度の国籍法はどうなっておりますか。


政府委員(枇杷田泰助君)

 御承知のとおり、今度の改正法におきましては選択の宣言をした人は外国の方の国籍の離脱に努めなければならないと規定いたしておりますが、しかし国の国籍の方を離脱できるかどうかはこれは当該外国の国籍法の規定によって左右されるわけでございます。そういうことでございますので、離脱しなければそれによって直ちに日本の国籍の方を喪失させるとかというような効力を認めるということは適当ではございません

 したがいまして、御本人の努力と、それから各国の法制とによってなるべく外国の国籍を早期に離脱するようにということを期待するということにとどめております。それ以上のことは酷なことにもなりますので、改正法におきましても要求はしておらないところでございます。


飯田忠雄議員

 日本国民とそれから外国人というものは違うでしょう。外国国籍を持っておる者と日本国籍だけの者と同じであるかどうか、この点私は非常に御答弁を聞いておりまして不思議に思いますが、日本国籍を持っておって同時に外国国籍を持っておるということは外国の立場から見れば外国人なんですよ。

 アメリカの立場から見ればアメリカ人なんです。

 日本人じゃない、日本から見て日本人だけれども。

 そういう場合に心が両方を向いておる人を、それをただ抽象的に日本国籍を持っておるから日本人だということで、日本の政治的な責任を任せていいといったようなそういう理論がどうして出てくるのか、私は非常に不思議に思うんですよ。

 外国でこういうような場合にどういう措置をとっておられますか、御研究になったことがありましたらお知らせください。


政府委員(枇杷田泰助君)

 確かに世界の国籍法の一つの理念といたしまして国籍唯一の原則というものがございます。

 一人の人間は一つの国籍を持つのが望ましいという考え方でございまして、これは私どももそのとおりだろうと思います

 したがいまして、なるべく一つの国籍になる、日本の国籍に固まるかあるいは他国の国籍一つだけになるかということが望ましいという考え方でおることは過日の改正法の御審議の際にも繰り返し申し上げた点でございますが、ただそういう原則がありましても、実際上各国の国籍法がまちまちでございます。

 万国を共通する国籍法があるわけではございませんために、当人の方が一つの国籍にしたいとしてもそれができないという場合があります。


 我が国の方では日本の国籍の方を失いたいというならば二重国籍者についてはいつでも離脱ができるという法制になっておりますからよろしいのですけれども、外国では必ずしもそうでないというようなことがございますために、その解決の方法として選択の宣言とか、あるいは留保とか、そういうふうな制度でいろいろなことを考えておるわけでございますけれども、また外国の方でも国籍唯一の原則というのはやはり一つの原則として考えているようでございまして、その法制をとるところもいろいろありますが、ただ具体的にはなかなかそれを解消するという妙案がないというところから事実上断念しているところもあるようでございますし、あるいは我が国と同じような選択の制度、あるいはそして他国において選択の宣言をすれば自国の国籍を喪失させるというような法制をとっているところも若干あるわけでございまして、今後国籍法の改正を考えておる国もかなりあるようでございますので、どういうふうな方向に行くかはわかりませんけれども、やはり国籍唯一の原則というものを、自国の法制並びに戸籍制度等、要するに国民の把握の仕方との絡み合わせからいろいろなことが各国の実情において工夫されていくものだと思います。


飯田忠雄議員

 先ほど旧国籍法のところでお尋ねしましたが、旧国籍法でも選挙権を制限しているのじゃないんですよ。

 国の重要な職、国務大臣とか、現在で言うならば最高裁長官とかあるいは国会議員、そういうものになるのを禁止しておるだけであって、選挙権そのものを一般的に禁止しているんじゃないですよ。

 そういうことは、なぜ旧国籍法がそういう制限をとったかといえば、やはり国の主権擁護のためであると解きざるを得ないわけですね。
 そこで、二重国籍者に被選挙権を無制限で認めるということは政治上障害が起こらないと合理的に判断させる根拠がありますか、お尋ねします。

 これは今法務省ばかりお尋ねしましたので、自治省のお方と内閣法制局のお方に御答弁を願います。


説明員(浅野大三郎君)

 被選挙権につきましては公職選挙法第十条で規定しているわけでございまして、一定年齢以上の日本国民は衆議院議員または参議院議員の被選挙権を有するということを定めております。一方で二重国籍の者を排除するという規定もございませんから、日本国籍のほか他の国の国籍を有する二重国籍者が国会議員となるということも現行法上可能ということになっております。
 お尋ねは、一体それで政治上障害が起こらないという合理的理由があるかどうかということでございますが、大変難しい問題でございます。ただ、私どもといたしましては、これまでのところそういう二重国籍者が選挙権を行使する、あるいは選挙によって選ばれる、公職についたことによりまして何らかの障害が生じたという事例は承知しておらないところでございます。

 

政府委員(前田正道君)

 ただいまの問題につきましては、過日委員から当局に対しましてもお尋ねがあり、その際、担当部長の方から、重要な問題でございますのでしばらく検討さしていただきたいというふうにお答えしたように記憶をいたしておりますので、私から答弁いたしますことは差し控えさせていただきたいと存じます。


飯田忠雄議員

 これはまだ法制局の方で正確な御返事はいただいてないんですよ。それでお尋ねしたんですが。
 それで、私がなぜこういう問題を取り上げるかといいますと、重大な問題でしょう。政治上の障害が一体起こらないかどうかという問題、例えば以前は外交官の奥さんに外国人をとることを禁止した時代がある。それは外交上の秘密が漏れるからですよ。例えば総理大臣が二重国籍者、例えばソビエトと日本と両方の国籍を持っているという場合に、結局強い方の国家主権に奉仕するという傾向になりがちです。日本の利益を侵害してでも強い方の外国の利益を図るということになりがちなんです。そういうことで一体日本国民の利益が擁護されるかという根本問題があるわけですよ。これは現実にそんなばかなことは起こらぬと、こういうふうに皆さんお考えかもしれませんが、二重国籍者であるならば起こる。
 例えば現在でも外国で複合民族の国においてはいろいろの民族の人が政治の衝に当たられます。この場合には単一国籍しか持ってないんですよ。あれが二重国籍を持っているならば大変問題が起こってくると思いますよ。殊に二重国籍者に外交問題を担当させ得るかというと、これは大変疑問が私はあると思います。こういうような重大問題を架空のことと考えておられることはこれは困りますよ、選挙権、被選挙権の問題は当然起こってくるんですから。
 そこでお尋ねしますが、外国の国籍法によって事実上二重国籍となる人、こういう人の年齢が今後公職選挙法に言うところの選挙権、被選挙権を有する年齢、そういう年齢になる場合は全くないとお考えなのか、あるいはあるとお考えなのか、お尋ねいたします。これは法務省と自治省にお尋ねします。


政府委員(枇杷田泰助君)

 私どもは国籍法を担当しておりますけれども、私どもが考えております国籍法というのは国籍の取得と喪失のことを決める法律であるということでございまして、二重国籍者が日本の国籍と同時に外国の国籍を併有しているということから他の分野におきましていろいろな問題が仮に出るとすれば、それはその法域でしかるべく措置をすればいいという考え方をとっておるわけでございまして、ただいま御指摘の選挙権、被選挙権の問題につきまして直接に私どもがお答えする立場にないということで御了解をいただきたいと思います。

 

説明員(浅野大三郎君)

 国籍法のことにつきまして私は所管ではございませんが、先ほどの御答弁をお聞きしておりましても、当然二重国籍ということは今後とも起こり得る状況にあるようでございます。そういうことでございますと、そういう二重国籍を持った方が公職選挙法で定める一定の年齢に達しまして、それによって選挙権、被選挙権を有するということはあり得るというふうに考えております。

 

まとめ

  • 二重国籍を持った人は被選挙権を有する
  • 日本人でも愛国心を持っていない人がいるのだから、国籍で判断はできない
  • 旧国籍法は国籍で区別していたが、新国籍法はそもそも民主主義の元なので、国民が判断すればいい
  • 離脱を勧告し、努力を期待する以上のことは、相手国によって変わることなので酷である
  • 制度が世界でばらばらになっているから他国の国籍で判断するのは難しい

 

重ねて申し上げたいこと

 普通、台湾パスポートを持っていた人間が日本のパスポートに変わればそれは「帰化」だと考えるだろう。ましてや、蓮舫氏は当時高校生である。国籍が抜けていたと考えてもおかしくはない。

 通常議員になろうという人間であれば、わざわざ二重国籍を維持しておくメリットなど皆無である。あれほど「愛国的」な小野田きみ議員ですら、国籍離脱は最近まで行われていなかったのだ。

 

 また、日台関係は植民地と宗主国の関係でもあり、国交断絶なども経た非常に複雑な関係性を有している。

 その中で、この問題を掘り返し続けるのであれば、日本の歴史やあるいは国籍法についての前提知識を充分に持っておく必要があるのではないだろうか。 

蓮舫代表に求められた「ルーツを捨てろ」という声

蓮舫氏の国籍について、再び「問題」が再燃している。本日蓮舫氏が会見を行い、近く記者会見を開くことを明らかにした。

私は、この問題は蓮舫氏に対する不当な要求であると考えている。

 

台湾籍についての説明会見(代表就任前)

 

代表定例会見

 

抑えるべきポイント

本件に関して、何点か抑えるべきポイントを示しておく。

 

改正国籍法上の日本国籍取得

かつて日本の国籍法は、「父系主義」だった。父親が日本人でない限り日本国籍は付与されず、国際結婚の増加とともに無国籍児の問題が表面化した。

そこで、昭和60年より国籍法が改正され、母親が日本人の場合でも日本国籍が取得できるようになった。蓮舫氏はこのケースに当たるため、昭和60年より3年以内に自主的に日本国籍を取得したことになる。

蓮舫氏は自主的に日本国籍を取得した、ということは明確である。

 

日華関係の混乱と「一つの中国」論

日華(日台)関係は常に矛盾を孕んだものであった。日本と中華民国に正式な国交は存在せず、日本はあくまで中華人民共和国のみを国家として承認している。

日本と台湾の間には公式な政府交流機関がない。現在こそ関係が深化しているものの、国交断絶以降、かつて遥かに交流が少ない時代があった。

このような状況においては、手続きの不備や、国籍喪失の説明が不十分であったことも充分に考えうる。

 

また、前述の通り日本は台湾を国家として承認していないため、日本においては「中華民国籍」は存在しない。

また、中国は二重国籍を認めておらず、他国籍を選択した時点で国籍は失われる。

(これはナーバスな問題なので、下記専門家の記事を参照されたい)

https://news.yahoo.co.jp/byline/yanaihitofumi/20160916-00062183/

 

問題は、国籍離脱義務が果たして国家承認していない国の国籍をも含めているのか?という点だ。

法務省は曖昧にしている部分があるが、一般的な解釈として、国家承認していない国家の国籍離脱を国内法の義務として課している、と考えるのは難しいのではないか?

蓮舫氏に対する不当な批判

17歳当時、蓮舫氏が自らの意志で日本国籍を取得したことは、疑いようのない事実である。なぜなら、蓮舫氏は出生時は国籍を持っておらず、その後の手続で国籍を取得していない限り、参院議員として立候補すら出来ないからだ。

そのことは選挙管理委員会が明確に確認しているはずの事実である。 

「私は中国人」などの発言について

また、蓮舫氏が出生時は中華民国の国籍を保有し、日本の国籍を持っていなかったことは事実である。

このような事実を踏まえれば、例えば「私は台湾人である」という発言があったとしても、それは本人のアイデンティティを表す発言として、不自然ではない。

それは、例えば既にアメリカ国籍になった日本人が「私は日本人である」と発言することに不自然さを感じないように、中国人であったものが「私は中国人である」と発言することは当然ありうることだからだ。

 

この問題に関して当初より明らかになっているのは、蓮舫氏が日本国籍を持っていることだ。これに対しては疑いようのないし、疑念が持たれたこともない。

また、日本が「一つの中国」論を採用している以上、法的に問題が生じる可能性も極めて低い。

だとすると、何を問題視しているのだろうか?

中国系日本人という選択

蓮舫氏が自身のルーツに誇りを感じていることは、度々語られている。本人が蓮舫という中国名を使っていることからも明らかである。蓮舫氏は自身のルーツに対して誇りと愛着があるからこそ、そのような名前を選んでいるのだ。

 

問題は、我々の社会がそのような人物を受け入れられるかどうか、である。野党第一党の党首が、自身の中国のルーツに対して誇りと愛着を持っていること、それを受け入れるかどうか。 

「ルーツを捨てろ」という声

「二重国籍問題」の本質は、蓮舫氏に対する「ルーツを捨てろ」という要求ではないだろうか。彼らが要求しているのは、蓮舫氏が中国、あるいは台湾というルーツを捨てることではないだろうか。 

 

それは、例えば同じく「ダブル」である小野田きみ議員が、積極的に国籍喪失をアピールしていることからも明らかである。なぜダブルの人間が、国籍喪失をことさらに主張しなくてはいけないのだろう?

人間には複数のルーツがあって当然だ。両親のどちらかが関西、どちらかが関東という人もいるだろう。沖縄と本土、北海道と本土、というミックスもあるだろう。蓮舫氏は自ら日本国籍を取得したという意味で、むしろ通常の日本人が考えもしない選択を自ら行ったのである。

 

日本の愛国心とは、複数のルーツを拒否するほど狭量なものではないはずだ。王貞治氏は台湾人であると同時に日本人である。「私は日本人である」ということと「私は中国人である・台湾人である」ということは両立するはずだ。

今、社会に求められているのは、複数のルーツを持つ人間を我々の社会が受け入れられるかどうか、ということではないか。

この問題は、日本が本当の意味で多様性を持った社会に買われるかの試金石である。日本社会に、大きな課題が突きつけられている。

獣医学部は本当に既得権益なのか?

菅義偉官房長官は27日午前の記者会見で、獣医学部新設が52年間認められなかった経緯について「岩盤規制といわれる獣医師会、農林水産省、文部科学省が大反対してきたからではないか。まさに抵抗勢力だ」と批判した。その上で「規制の根拠が明確にない。そうしたことが維持されてきていることが問題だ」と語った。

既得権とは何か

そもそも、既得権とはなんだろうか。

既得権 ブリタニカ国際大百科事典

すでに獲得している権利。なんらかの法的根拠に基づき、すでに取得している権利。

既得権と権利は何が違うのだろうか。一般的には、上のような辞書的な意味ではなく、

生まれや古い制度などによって不当に守られた権利・権益であり、誰も特をしない権益  

このような意味、あるいは

自由競争を阻む不当な規制により生まれた権益

ではないだろうか。

このツイートもそれを前提にしている。

親の代からの政治家一家である安倍総理が「既得権」を口にするのも不思議な話ではあるが。

 

獣医師は既得権益なのか

自由競争と需給調整

通常の経済活動では、自由競争が担保されていれば、需要に応じて市場が価格と供給量を決定する。

しかし、獣医師はどうだろうか。自由競争によって各大学が獣医学部を作れるとすれば、それは市場により調整されるものだろうか。

「獣医の価格が下がったから」ペットの総数が増えるわけではないし、家畜が増えるわけでもない。獣医の給料が下がったからと言って、それが即座に需要に反映されるわけではない。

完全なる自由競争で成立する世界ではないことが自明である。作れば作った分だけ売れるような種類のものとは違うのだ。

  

大学の目的とはなんだろう。あるいは、大学における受益者とはなんだろうか。(株式会社立大学であれば、それは株主となるが)学校法人は公益法人である。当然、私学助成金によって税金も投入されている。

 

大学の公益とは、社会が必要とし、社会が求める人材を排出すること、またそのような人材に育てることで一人一人の人生にとって必要な教育を提供することだろう。

当然、社会に必要されている、需要のある人材を供給することが公益法人たる大学の義務である。

だからこそ、学部はその需要を正確に見極め、需給ギャップが生じないように人材を輩出することが求められている。

 

獣医を「既得権」と呼ぶ人間が獣医学部を作る愚

獣医であることは既得権なのだろうか。獣医学部は既得権者を育成する学部なのだろうか。

馬鹿げている。獣医学部が獣医を育成する以上、獣医の生活と雇用を守ることは、獣医学部にとって最も重要なタームの一つであるはずだ。

 

そもそも、獣医の資格が既得権であるなら、加計学園の建設はやはり「既得権の仲間入り」を特権的に行ったということになるまいか。

 

既得権とは、ただその地位を保持しているだけで莫大なお金や、様々な特権を手に入れられる立場の人間に対して使うべきことだ。

例えば、そう、父や祖父が政治家であるだけで、後援会や政治資金が手に入ったり、学校法人の経営権を手に入れられたりするような人たちのことである。