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なぜ高度プロフェッショナル制度は(大きな抵抗もなく)成立したのか?

 高度プロフェッショナル制度が成立した。

この間の高度プロフェッショナル制度を巡る与党の国会運営は、これまで述べてきた通り大変ひどいものだった。

 

 何より、ヒアリングについての虚偽答弁が明らかになるなど、立法事実がもはや存在しない中で、このように大きな労働法制の変化を起こしたというのは、日本の国家としての在り方に関わる異常事態と言える。

さて、今回は国会の話からは少し離れる。なぜこのような大きな法案が、世論の大きな反対もなく可決したのか、この点について検証したい。

 

高度プロフェッショナル制度へのコメント

高度プロフェッショナル制度は、どのような要請に基づき検討されてきたのだろうか。

 

経団連:記者会見における榊原会長発言要旨 (2018-05-21)

高度プロフェッショナル制度は高い専門性を有する労働者に対する制度であり、かつてのホワイトカラー・エグゼンプションとはまったく別のものである。

経団連はホワイトカラー・エグゼンプションの対象を年収400万円以上としていたが、高度プロフェッショナル制度の年収要件は1075万円とされている。まったく違う制度であり、高度プロフェッショナル制度について年収要件の引き下げを求めていく考えはない。

例えば、経団連の榊原会長はこのように述べている。また財界に大きな影響力を持つ竹中平蔵業者もこのように述べている。

 

専門職で年収の高い人を労働時間規制から外す「高度プロフェッショナル制度(高プロ)」を「残業代ゼロ法案」と強く批判してきた連合が、条件付きで導入の容認に転じたことが組織内に波紋を広げている。

 

労働者の代表である連合の動きも決して迅速ではなかった。

連合は当初、高度プロフェッショナル制度に関して条件付きで容認しており、今回の採決の前の談話でも、高度プロフェッショナル制度よりも更に前に「同一労働同一賃金」について言及している。

 

むろん、時間外労働の規制は大変に大きな改革であり、これは歓迎すべきことだ。しかしながら、労組の強い企業では導入しづらく、また既存の正社員には適用しづらい高度プロフェッショナル制度をバーターにしたとすれば、連合の意図は透けて見える。

 

なぜ高度プロフェッショナル制度が財界にとって重要なのか

この高度プロフェッショナル制度の源流は2006年に考案された、ホワイトカラーエグゼンプションにさかのぼる。この時、年収400万円以上という大変対象範囲の広い政策として提案されたため大きな反発を生んだ。

 

つまり、高度プロフェッショナル制度とは、経団連にとって10年来の悲願であったといえる。では、なぜここまで経団連が高度プロフェッショナル制度に執着しているのか。

その理由の一つが、財界における残業代の扱いにある。財界において残業代は、諸悪の根源のように扱われている。

 

例えば、カルビーの松本会長などの発言にもその一端が見て取れる。

 日本の働き方において何が一番悪いかといえば、言うまでもなく残業ですよ。残業手当てという制度がある限り、問題は解消されません。

 働き方改革に関しては、あながち政府が言ってることも間違ってるとは思いません。裁量労働制にしたらいい。特にオフィスで働いている人たちは、「時間」ではなく「成果」で働いているのですから。

 

経団連にとって、残業代ゼロとは日本経済の最後の切り札であり、それを実現することで、本当に生産性が上がり人がより余暇を楽しめる……と考えている節すらある。

 

もちろんここには、いくつかの合理的な理由もある。

日本においてはマネジメントへの昇進を前提とした年功序列型の賃金体系が確立しており、本当の優秀なプロフェッショナルに対して適切な賃金が払われているとは言い難い。

高度プロフェッショナル制度のような別立ての賃金体系を用いることで、このような高度プロフェッショナルに高い賃金を払うことができるのも事実だ。

例えば優秀なプログラマーや研究者など、管理職ではないプレイヤーを雇用することも可能だろう。

 

しかしながら、当初経団連が400万円以上を対象にしていたことを踏まえれば、「小さく産んで大きく育てる」という経団連の目的は極めて明白ではないだろうか?

これは、労働者派遣法の歴史と重なる部分もある。

 

 

なぜ高度プロフェッショナル制度は成立したのか

では、なぜこの法案が、あえて言うならさしたる反対運動も起こらずに成立したのか。そこには深刻な世代間対立がある。

 

今の日本で、いわゆる大企業で働く20代30代などの現役世代と話していると、働かないおじさんへの憎悪といってもいいほど強い敵意がある。

いや、現役時代だけではなく、40代、50代になっても自分がバリバリ現役であると思っている人には「おっさん」批判をし続ける人は少なくない。

リベラルとか保守とか、思想に関係なく、とにかく彼らは働かない上の世代、いわゆる老害を強く憎んでいて、老害を追放すれば日本は良くなるとかなりピュアに信じている。

 

今の日本に共通するのは、稼がない、成果を出さないものは価値がない、という強い価値観である。

そう考えれば、今回の高度プロフェッショナル制度が、強い反対運動につながらなかったことも理解できるのではないだろうか。

経営者だけではない。残業代がなくなることは適切だとすら考えている労働者も多いのだ。

 

戦後、焼け野原からスタートした日本のアイデンティティは、高度経済成長以降一貫して「経済大国」であった。

バブル崩壊以降の長期低迷により、日本は経済大国としてのアイデンティティを喪失し、その隙間を縫って、昭和日本の否定が行われた。かつて世界から称賛されたはずの日本的経営、とりわけ年功序列、終身雇用は、とりわけ諸悪の根源として徹底して糾弾され続けた。

 

改革という言葉が横行した結果、非正規社員は急増し、一方で労働組合は正規社員の待遇を守ることに固執した結果、格差は拡大し、正規社員の持つ様々な労働者としての権利は既得権益とすら見なされるようになった。

バブル崩壊以降の日本は、奇妙なことに、昭和の日本を否定し続けることで、失ったはずの経済大国としてのアイデンティティを保ってきたのだ。

 

そこで生まれたのが、「稼がないものには価値がない」という価値観である。

働かないで残業代を稼いでいるやつがいたから、日本の改革は進まない。こういった空気は確実に今の日本の主流と言ってもいい。

極めて不幸なことに、そのような思考の人間ほど真面目に働くため、過労死のリスクが高い。

 

過去の日本の否定と、経済大国というすでに喪失したアイデンティティの間で、立法事実のないはずの高度プロフェッショナル制度は成立した。

そしてその先に待っているのは、戦後を否定しながら、失われし「経済大国」を引きずり続ける、悲しいノスタルジー国家ではないのだろうか。