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野党のパフォーマンスは悪なのか?

 とりとめのない話をする。

 昨日、立憲民主党の衆院議員、尾辻かな子さんが、セクハラ被害者に対して連帯を示すために、アメリカの#metoo運動になぞらえて(あるいは、それに連帯したアメリカ民主党の議員になぞらえて)黒い服を着ることを提案した時、私はどうせ、批判されるのだろうな、と想像していた。

 尾辻議員は、日本ではじめてのLGBT議員であり、ジェンダー問題に関しては第一人者でもある。

 

 メディアでは一定程度取り上げられた。「パフォーマンス」としては、それなりの効果があったのではないか。

 私の予想通り、様々な批判を浴びた。はてなブックマークですら批判的なコメントがほとんどだった。

 

 

野党のこういう絵面重視(だけどキレイじゃない)、キャッチフレーズ重視(だけどすべってる)のが本当に見ていてつらい。つらすぎる。そして中身が頭に一個も入ってこなくなる。普通に抗議してお願いだから。

 私は、批判を見ながら、トップページにあるコメントのこの意味を、ずっと考えていた。この方を批判しようということではない。多くの星がついていることから考えても、ネットのある意味マジョリティの意見なのだろう。

 この方の言っている、「普通に抗議」とは何なのだろうか。「普通の服を着て、普段のまま、普通に抗議する」ことを求めているのだろうか。

 もし、セクハラ問題に対する抗議が正当なものであるとしたら、「つらすぎる」のはなぜなのだろうか?

 すべってる、とはどういうことなのだろうか。セクハラ問題は、受けを狙ってやっているわけではない。それは、すべるような性質のものなのだろうか。

 キレイじゃない、のは仕方ないかもしれない。色々不十分な点はあるだろう。たった一人が提案したことだ。しかし、被害者女性への連帯を示すことが仮に「パフォーマンス」であったとして、それがいかなる悪なのだろうか。 

 

 あえて問う。国会議員がパフォーマンスをしなかったら、誰がパフォーマンスをするのだろうか。誰が社会問題を提起し、誰がそれを訴えるのだろうか。

 一体、そこに我々は何を求めているのだろうか。

 

「#metoo」を当事者以外がやるのはいかがなものか、というコメントもあった。しかし、#metooという言葉の意味をわかっているのだろうか。「私も同じ」である。

「#metoo」 運動は、そもそも、被害を訴えた女性だけでなく、「自分たちも性差別の当事者である」ということを、様々な社会的地位のある女性(とりわけハリウッド女優)が訴えることで、単に個別の被害ではなく、構造的に存在する性差別を解消しようという運動だ。

 そして、国会議員ほど、性差別の最前線に経っている人間はいないだろう。なにせ、本邦の議会は世界にも類を見ないほどの男社会であり、要職を女性が占めることは殆ど無い。

 「選挙目当てのパフォーマンス」という紋切り型の語句が存在する。しかし、パフォーマンスは悪なのだろうか。

 例えば、選挙演説はパフォーマンスなのだろうか。仮に、選挙演説がパフォーマンスであり、やってはならないとすると、国会議員がやることは一体何になるのか。

 国会議員の仕事は国会での質疑だ、というご意見もあるだろう。しかし、果たして何人が、NHKで中継されていない国会の委員会をきちんと視聴しているのか(私はかなり国会を見ている方だが、それでも五分の一も見られていない自覚はある)。

「#metooの政治利用」などという頓珍漢なコメントもあったが、もともとセクシャルハラスメントも、#metooも、極めて政治的なイシューである。男女共同参画は政治が解決するべき問題だからだ。しかも今回は財務事務次官の問題なのだ。何が政治利用なのか理解に苦しむ。

 

 私が野党に求めるのは、問題提起である。それは言い換えればパフォーマンスとよんでもいいのかもしれない。

 まずい法律、まずい閣僚、まずい国会運営を、きちんと国民に知らしめるのがパフォーマンスである。

 それが下手だ、というような批判は当然あってしかるべきだろうが、「パフォーマンスだ」ということが直接的に批判になるのは、全く理解が出来ない。

 

 野党のパフォーマンスが嫌いだ、という言葉は「女は黙ってろ」というのと、何が違うのだろう。

 力弱い者、実際に動かす権力がないものは黙ってろ、という言葉と、一体何が違うのだろう。

 私はもちろんセクシャルハラスメントを問題提起するのには賛成だ、という方もいるだろう。であれば、どんなに下手なパフォーマンスであれ、それを飲み込んで、もっといい連帯の仕方を、パフォーマンスの仕方を考えるのが、やるべきことではないか。

  

 あえて申し上げたい。ただ批判して傍観しているなら、あなたは被害者か、加害者、どちらになるのだろう。

 例えば、こう考えてみてほしい。日本が大きな災害にあう。海外の国の政治家が「日本頑張れ」というセレモニーをする。

 その時、同じような批判は出るだろうか?

「パフォーマンスだ」

「見せ方がヘタで辛くなる」

「便乗しているだけ」

 というような言葉は出てくるだろうか?

 

 あなたは、セクシャルハラスメントというものを、軽く捉えていないか。

 セクシャルハラスメントに連帯を示すパフォーマンスが悪なのか。それを批判し、揶揄するのが悪なのか。もう一度、考えてみてはいただけないだろうか。

 

 批判されるべきは、こういう議員であるはずだ。

総理の本音

お酒が入ったときにこそ、四十代・五十代の紳士淑女から、思わぬグロテスクな本音が聞き出せる、ということがある。

この間も、さる業界の大物で、人品卑しからぬ紳士から「 #metoo とか言ってるけどさ、枕営業して得をしてた人が今更グダグダ文句をいうのもねえ」という言葉を酒席で聞き、やんわりと「まあ、今は時代が違いますからね」としか言い返せなかった自分に腹が立ったものだ。

一皮むけば、社会的に尊敬されている方が存外醜悪な考え方をしていることもある。

 

世の中には、(私にはちょっと想像もつかないが)万引きだったり、傘の盗難であったり、「大して金額の大きくない窃盗」を、さも武勇伝であるように語る人がいる。

例えば、100円の消しゴムを盗んだとする。ある人にとって、窃盗は金額にかかわらず犯罪であるが、ある種の人にとって、それは金額が小さいから、犯罪ではない。

 

更に不思議なことに、被害者の声に対して「こんな小さなことで誰かが辞めされられては困る」というような反応すら、必ずある。

 

そういう世の中の「見えない分断」を目の当たりにするに連れて、私は総理の本心というものがよく理解できるようになった。

今回の予算委員会の意味不明・非生産的・ふざけた答弁を見ていて、その思いは更に強まった。

総理の本心とは「なんでこんなことで大騒ぎしているの?」である。

 

考えてみてもらいたい。もし本当に、安倍総理を熱狂的に支持する人たちが、総理の関与を信じていなかったとすれば、今回の「総理案件」文書が出てきた時に激怒して、ふざけるな俺の信頼を裏切ったのか、と殴り込みに行くはずだ。

要は、彼らも、あるいは自称経済学者や自称物理学者や自称政治学者も、結局のところ総理が関与していないなんてハナから信じていなかったのだ。

というか、当たり前である。そんなのは小学生程度の知性があればわかるし、彼らはそれほど馬鹿ではない。要は、全部知っていて、それでも「馬鹿が騒ぐから」程度の気持ちで、無理筋なロジックを適当に組み上げているに過ぎない。

 

要は、彼らにとって森友学園の8億円の値引きや、加計学園だけに特定して緩和された国家戦略特区の制度は、100円の消しゴムを万引きした程度の話なのだ。

そして、それに対して、そもそも対した問題ではないのだから、どのような隠蔽やごまかしをしたとしても、問題がないと考えているのだ。

 

まあ、8億円の値引きや、特に需要の見込めない獣医学部の認可が「小さい問題」なのかについては置いておこう。しかし、その「小さい問題」を隠すために、隠蔽や改ざんやごまかしをしてきたことは、どう評価すべきだろうか。

私は、100円の万引きをごまかすために、万引きしたものをドブに捨てて「何も持ってないですよ」と嘘をつく行為をどう考えるだろう。

私は悪質極まりないと思うが、世の中には「100円くらいなんだから何してもいいじゃん」と考える人も、どうやらいるらしい。

とすると、総理のグロテスクな本音である「この程度のこと、グダグダ言うなよ。はいはい、とりあえず答弁しておきますよ」というような意志に基づいた答弁が、国民から一定の支持を受けるのも、やむを得ないのかもしれない。

 

思想に共鳴した学校への8億円の値引きも、友達のために国家戦略特区を作ることも、ある種の人にとって小さな話なのかもしれないし(そういう人は大抵『国会ではもっと議論する問題がある。例えば北朝鮮とか』などと述べている)、その小さな話で総理が辞めるのは困る、と思う人はいるのだろう。

そして、その小さな問題で辞めないために、「多少」書類をごまかしたり、「多少」嘘をついたりするのは、かまわないのかもしれない。

「ちょっと尻を触ったくらいで、首にさせられる社会は怖い」と言っていた男性の方がいた(それは流石に数年前だが)が、同じような感覚なのかもしれない。

 

まあ、ともかく。茶番はやめよう。総理を支持する人だって、総理が今、嘘をついていることは多分理解しているのだ。それが問題であると思っていないだけで。

だとすれば、嘘は嘘だと認めた上で、堂々と議論をすれば良いのだ。

そこから始めよう。随分長い道のりで、どこかにたどり着く保証もないのだが。

虚構の内閣

「オズの魔法使い」の最後。スクリーンが倒れると、偉大なる魔道士であったはずのオズの魔法使いはオマハから来た、ただの詐欺師だったことがわかる。

 この2ヶ月ほどで、安倍政権のスクリーンもまた、倒れた。

 

イラク日報:発見3日後に「ない」 陸自研究本部が隠蔽か - 毎日新聞

裁量労働制:1時間以下、実態反映せず 厚労省が調査公表 - 毎日新聞

森友問題:口裏合わせ 佐川氏認識か 学園側に理財局要請 - 毎日新聞

「本件は、首相案件」と首相秘書官 加計めぐり面会記録:朝日新聞デジタル

 

並べ立ててみればわかる。捏造と隠蔽と改ざんと口利きのフルセットだ。つまり、これは、第二次安倍晋三政権が、いかに国民を騙してきたかということの証拠である。

「一強多弱」「安定政権」と呼ばれた安倍政権は、それまで盤石であるように見えた。不思議なほど、決定的なスキャンダルはなく(まあ、決定的であると評価する人もいるだろうが)、安保法案を通しても、消費税を延期せずとも、解散の理由が特に無くとも、魔法のごとく、その支持率を保っていた。

 

 しかし、魔法はなかった。結局のところ、安倍政権は、嘘とごまかしによってその権力基盤を保っているだけだった。

 首相の魔法がスキャンダルを抑えていたのではなく、単にこれまでの内閣がやらないような捏造と隠蔽によって野党の攻撃を交わしていただけだった。

 ランス・アームストロングが不屈の精神力でカムバックし優勝をもぎ取ったのではなく、単なるドーパーだったのと同じように。

 

「安倍外交」は、結局のところ何も機能していなかった。

約束したはずの物価上昇率2%は未だに達成されないままだ。

魔法は、とけたのだ。

 

山本七平はこのように言っている。

「陸軍の能力はこれだけです。能力以上のことはできません」と国民の前に端的率直に言っておけば何でもないことを、自らデッチあげた「無敵」という虚構に足をとられ、それに自分のが振り回され、その虚構が現実であるかの如く振舞わねばならなくなり、虚構を虚構だと指摘されそうになれば、ただただ興奮して居丈高にその相手をきめつけ、狂ったように「無敵」を演じつづけ、そのため「神風」に象徴される万一の僥倖を空だのみして無辜の民の血を流しつづけた、その人たちの頭の中にあったものこそ血ぬられた「絵そらごと」でなくて、何であろう。妄想ではないか。  

一下級将校の見た帝国陸軍 (文春文庫)

一下級将校の見た帝国陸軍 (文春文庫)

 

 

 未だに安倍政権の存続を願う人の心理は私には理解できる。それは、終戦間際になっても本土決戦を心に誓っていた人たちと似ているのではないか。

 自ら信じていたことの全てが虚構であったという現実に耐えられる人は、そう多くはないだろう。

 

 私は非常に虚しい気持ちだ。どのような政権であれ、国民からの信任を受けて政策を遂行している限り、それは尊重されるべきだ。

 しかし、その信任そのものが、虚構によって演出されたものであった、ということは、この数年間の政治的な意味での前進は、ゼロに等しいということになる。

 結局のところ、戦後、都合の悪い書類を焼き捨てた国家から、我々は一つも前進していなかったということだろうか。いや、少なくとも、我々は焼き捨ててはいない。メモを書き残していた人たちはいたのだ。内閣がそれを隠していたと言うだけで。それは最後の希望なのかもしれない。

 

 

 安倍政権のかけた魔法がとけた後、誰が総理大臣になるにしてもその道は困難なものになるだろう。安定政権を望むことは難しい。

 いずれにせよ、安倍政権がたかだか数年延命する、ということに対して払った対価は、あまりに大きい。それは、この国の未来と信頼そのものだった。

 

 彼らは、正しい意味で国を売ったのである。

野党を批判せざるを得ない人たち

 

どんなに無理筋に見えようと、野党批判せざるを得ない人達というのがいる。

それは個人的理由なのか、思想信条的理由なのか、あるいはビジネス的な理由なのか分からない。しかし、中立を装い、なおかつ多数の賛同を得るためのツールとして、「与党も問題がある、しかし野党も」という言説を用いる人もいる。

私はそのような人間の心性には興味がない。しかし、その有害さは指摘しておかなくてはいけない。

 

今回の財務省公文書改ざんに関する問題を例に挙げる。この問題において糾弾されるべき、あるいは制度を変えるべきなのは、行政である。

この問題は立法府が担保されるべき国政調査権であったり、あるいは質問権といったものが、行政府によって侵害されたという事案だからである。

ごくごく一般的な脳みそを持っていれば、立法府の議員に対して瑕疵を問うという理論自体がおかしいことが分かる。

もし仮に瑕疵、あるいは追求ができなかった原因が立法府にあったとしても、立法府の現在の構成員はほとんどが与党・自民党あるいは公明党だ。

すなわち、立法府の責任を取る、という点において最も責任を問われるべきは与党であり、野党ではない。

野党を批判している者たちは多くは、野党の力不足を主張している。しかしながら、力不足を解決する唯一の手段は議員の数を増やすことで、つまり彼らは与党に立法府としての能力、あるいは行政の監視能力がないと考え、野党の議席を増やそうとしているのであろうか。

おそらく多くの方はそういうスタンスを取っていないだろう。

問題は、与党と野党の責任を平等に追及する行為がまるで中立であり、理にかなった態度であるかのように捉えている人が多いということだ。

しかしながら、行政に責任があるものを立法府に転嫁するという行為は、語義通りに責任転嫁と言うべきものであり、なおかつ立法府において多数を占める与党の立法としての監査責任を問わない態度は、およそ中立とは言い難い。

はっきり言えば、権力主義でしかない。

 

彼らは、なぜ野党を批判せざるを得ないのか。

問題は立法府がその信頼を失っていることにある。例えば先の佐川前国税庁長官の証人喚問において、もちろん野党側の質問に対してよりこうすべきだったという改善点は述べられるかもしれない。

しかし、丸川珠代議員あるいは石田真敏議員などの質問は、茶番と呼ぶしかないものであった。野党側の質問が力不足だとしても、彼らは最初から追求する気がなかったのは明白だ。

 

問題は、このような与党側の茶番的質問が、立法府の信頼そのものを毀損しているということである。

不思議なことに、与党自由民主党が立法府で馬鹿げた質問を繰り返せば繰り返すほど、立法府の信頼は落ち、行政府の力は強まる。

まさにこの数年マッチポンプ的に、そのような茶番的質問を繰り返し、行政府の監視という、立法府の、あるいは代議士・国会議員としての良心、誇り、そして責務を放棄してきた与党自民党の国会議員の責任は極めて大きい。

 

忘れてはならないことは、疑似政権交代と言われた自民党内での権力闘争は、まさに相互の厳しい監視によって担保されていたということである。

与党自民党の議員が、一定程度権力の監視という立法府の責務を果たしていたからこそ 、自民党内の自浄能力が働き、結果的には社会党などに政権を渡さなかったのである。

 

しかし、取り分け安倍政権になってからの、自民党の立法府としての誇り・良心は消え失せてしまった。

立法府の一員としての矜持を持たない議員が増えた、ということでもある。

 

自民党の松川るい議員が、「日程闘争なんて後進国みたい」というツイート(削除済み)をされているのを見た時、私は驚愕した。そもそも、参議院の予算審議というのは30日ルールがあるので、日程闘争とは何の関係もない。日程闘争とは、会期末まで法案を審議せずに、廃案未了に追い込むことだ。予算は自動的に衆議院に差し戻されるので日程闘争の意味がない。

「後進国」とおっしゃっている(これ自体も差別的発言ではあるが)が、会期不継続の原則や会期独立の法則はそもそもイギリス議会を元にしていて(現在は法制度が整備されているが)、立憲君主制に見られるものだ。立憲君主国家が後進国だというのだろうか。

しかし、問題はそういう知識不足にあるのではない。この時野党が要求していたのは、財務省が資料を出すことである。あろうことか、改ざんされる前の資料を出せ、ということが日程闘争であり後進国的だと主張していたのだ。

行政府を監視する立法府の一員としての自覚はかけらでも存在するのだろうか。

 

松川議員に、立法府の一員としての誇りは欠片も見当たらない。そこに存在するのはサラリーマン根性とも呼ぶべき、上司への忠誠、あるいは権力への生々しい憧憬だけである。

 

自民党は安倍政権以降、一貫して立法府の能力を弱め、立法府の誇りを毀損し、その立法府を貶めることによって行政府の力を強化してきた。

このような態度は決して許されるべきものではない。かつて政治家と政治屋という対義語が流行った時期がある。政治を職業として、ファミリービジネスとして捉えてきたことの弊害がここにある。

そして、彼らを擁護し、野党を馬鹿にすることで、立法府を馬鹿にするようにして、行政府の力を強めてきた言論人の責任もまた大きい。

 

もう一つ、私が驚愕したツイートを紹介する。

どんなときであれ、国会議員の名前があるということがどれほど大きいものなのか、小野田議員はご自身で言及されている(知らないうちに使われるくらいには)。にも関わらず、「利害関係者では?」といぶかる声に対して「滑稽」とまで語っている。

国会議員の名前の重さというものを、全く理解されていないのではないだろうか。

 

総務省では、「後援団体からの寄附」と「政治家の関係会社などからの寄附」を禁止している。後援会長はご自身の認識は別にして、密接な関係者であろう。

総務省|寄附の禁止

 

これを小野田議員が何のてらいもなく、あっけらかんと「後援会長ですけど、利害関係者ではないです」と公言していることに、非常な違和感と危機感を覚える。

 

自民党の国会議員には、非常に優れた方が多数いるのも事実だ。しかし、本当に立法府の一員として、権力を監視する、民主主義と国民主権を守るという代議士の本義を忘れていないといえるだろうか。

サラリーマン的に、官僚的に、ただ上に従い、お世話になった人に恩返しをする、ということだけを繰り返してはいないだろうか。

この種の言説は、馬鹿げて見えるのかもしれない。しかし、それこそが安倍政権が日本に与えた最も大きなダメージなのではないだろうか、と思う今日このごろだ。 

社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学

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既に死んでいた日本の民主主義について ー 財務省・文書改ざん問題に思う

 財務省による文書改ざんが明らかになった。


 冒頭申し上げたいのは、これは安倍政権だけの問題ではないということだ。もちろん安倍総理の責任は免れないし、昭恵夫人の関与が明らかになった以上堂々と議員も総理もお辞めになるものと思っているが、森友学園が昭恵夫人の意向が働いて格安で土地を購入したことは、まともに政治を見ている人間なら誰もが知っていた話だ。そういう意味で、何も新しいことはない。

 言うなればちゃちな話だ。権力というものを勘違いした昭恵お嬢様が周りを振り回し、夫人付はイタリアに飛ばされ、籠池夫妻は独房で閉じ込められた。酷い話だが、こんなことは誰もがわかっていた話だ。

 本気で安倍夫妻が関わっていなかったと思っていたのは、よほどの馬鹿だけだ。

 

 しかし、財務省が省ぐるみで文書改ざんし、会計検査院がそのことを把握していたにも関わらず隠蔽していたとなれば、これは民主的国家としての存亡に関わる話だ。

 発端は安倍総理だろう。自分や妻が関わっていたら辞める、などと言ってしまったがために、嘘を糊塗するために文書の改ざんが必要になったと考えるのが自然だ。

 

 問題は、多くの場合、バレないウソを付くことは、あらゆる選択肢の中で最も合理的であるということだ。 

 例えば、日銀の岩田副総裁は、物価目標達成出来なければ辞めると言いながら居座ってひんしゅくを買ったが、もし物価統計を弄っていればスーパー副総裁として諸手を挙げて歓迎されただろう。

 安倍総理が「物価目標を達成できなかったら私は辞める」などと言わなかったことに心から感謝したい。

 実際に起きた事案でもそうだ。厚労省のデータ問題でも「裁量労働制は働き方改革だ」などと無理筋の議論の中に「裁量労働のほうが労働時間が短い」というデータが有れば、批判をかわすことが出来る。

 防衛省の日報問題も、最初から「戦闘」などという文字が存在していなかったことにしてしまえば、問題にされることもない。

 一度カンニングをしてしまった生徒は、真面目に勉強しなくてもなんとかなる、と覚えてしまう。

 そのような意味で、様々な省庁で、このような自体が常態化していたのではないか?という疑問がまず湧くだろう。

 

 正直に言って、この点を一体どのように解決すれば良いのか、私には全く解が見えない。本来省庁の適切な予算執行をチェックする、独立した機関であるべき会計検査院までがこの問題を把握していたと質問に答えたのだ。正直に言って、何をどうすればいいか私には分からない。

 無理筋な答弁をするのは、民主主義国家では許容範囲だ。しかし、改ざんをしてしまっては、議論の前提が成り立たない。

 なぜなら、立法府が行政府に対して説明責任を求め、それを見た国民一人一人が投票をし、我々の選良を選ぶことが民主主義の前提だからだ。

 予算の執行やあらゆる政策に関して、嘘偽り無く政府が回答していることが選挙を行う上でも大前提になる。

 その意味で、安倍政権は民主的に選ばれた政府とも言い難い。

 

 これは氷山の一角である。一つ公文書改ざんが発覚したということは、その裏に発覚しない改ざんがあると考えるべきだ。

 我々は、民主的政府が存在する前提を既に失っている。

 このような自体が発覚した上で会計検査院の存続が可能かどうかも分からない。しかし会計検査院がなくなれば、予算をチェックする機能を事実上日本は失うことになる。

 また、行政府から出されたデータが本当に正しいものなのか、あるいは正しいものだったのか、これからいちいちチェックするわけにも行かないし、さりとて信用するわけにも行かない。つまり、立法府による行政の監視に関しても機能不全に陥る。

 

 安倍晋三という一人の議員は、決して極右的思想を持っている人間ではないと私は考えている。むしろ、思想的にはゼロに近い。学生自体もノンポリだった。

 安倍さんという人は、ただ単に周りに影響されやすく、政治思想や強い意思を持たない凡庸な人間であると考えたほうがいいだろう。

(それらについては、青木理さんの書かれた書籍に詳しい)

安倍三代

安倍三代

 

 

 問題は、安倍政権の元で行われた様々な問題に、チェック機能が働かせる人が誰もいなかったことだ。与党も、官僚機構も、全くストッパー足り得なかった。

 もし仮に、将来遥かに破壊的思想を持った人間が総理大臣になった時、一体誰が歯止めをかけるのだろう。

 

 私は以前の記事で「腐敗国家とは、悪がなされ、それが見過ごされる国家である」と書いた。

 

 悪はなされ、それが見過ごされただけではなく、その悪に合わせて現実を改ざんせんと文書が書き換えられた。これが日本の現実だ。

 

 日本の民主主義が死んだ、というのは適切ではない。日本の民主主義は既に死んでいたのだ。これからはそれを蘇生する作業になる。

 生き返るかどうかは、誰も知らない。

そしてオオカミ少年は扇動家になった

 前回の記事には、ありがたいことにほとんどの(記事をきちんと読んでくれた)方からは同意の反応を頂いた。

 一部、「安全保障はいろいろな可能性を考えるべき」「スリーパーセルがいないとは言っていないのだから議論をしないのは危険」「実際にテロが起きたらどうするのだ」というような反応もあった。

 私は、このような種類の反応が最も危険であると考えるので、ここで反論しておきたい。

 

 こういうケースを考えてみよう。

 地震の専門家、という肩書の人間がテレビに出て「いま一番やばいのは○○。三ヶ月以内に大きな地震が起きる」と言う。検証の結果、その自称専門家の発言にはなんら学術的な根拠がなかったとわかる。

 結局、地震は起きず、その自称専門家は何事もなくテレビに出続ける。

 このときに、「実際に地震が起きたらどうするんだ」「日本は地震のリスクが高いんだから、それを批判するのは平和ボケだ」というような批判は起こるだろうか?

 

 根拠を明示せずに不安を煽るのは、専門家としての発言ではなく脅しである。「あなたはタバコを吸うので肺がんのリスクが高い」は専門的発言だが、「あんた、このままだとガンになるよ」と占い師が言うのは脅しだ。

 このような脅しは、震災直後に散見された。

 

 多くの自称識者、自称専門家が、福島はおろか東京すら住めなくなるとまで言った。

 子どもたちは癌になるであろう、というものもいた。結果的に、それは誤りだった。しかし、人々は深く分断された。

 東日本大震災における福島第一原子力発電所の事故は、日本史に残る悲惨な災害である。だからといって、それを用いて根拠のない流言を流布し、不安を煽り立てるのはただのアジテーションである。 

 

 北朝鮮は日本の防衛にとって現実の脅威であり、外交や防衛は国家の重大課題だ。そして、我が国で拉致を含む様々な工作活動が行われてきたことは事実だ。

 だからといって、根拠なく自身の妄想を公共の電波に乗せ、不安を煽り立てる行為は、同じくアジテーション、扇動家とのそしりを免れまい。

 

 危険で深刻な自体であるほど、事実と想像を明確に分ける必要がある。人々がパニックになることが、国家の安定にとって最も危険だからである。

 はっきり言おう。「刺激的で不安を煽るようなことを言う自称専門家」は、国家の安全と安心にとって有害な扇動家でしか無い。

 もし自分がそうでないと主張されるのなら、まず論拠を示すことが必要ではないか。

 

 さて、三浦氏は、批判に答えツイッターで以下のように反論されている。

  私は、このツイートを見て衝撃を受けた。言うまでもなく、「大震災時の迫撃砲発見」という記述についてだ。

 ちなみに、本題に入る前に警察白書について触れておくと、平成29年度版の警察白書において北朝鮮については下記のように触れられているが、テロ行為が確認される、とは書いていない。

② 我が国における諸工作
北朝鮮は、我が国においても、潜伏する工作員等を通じて活発に各種情報収集活動を行っているとみられるほか、訪朝団の受入れ等、我が国における親朝世論を形成するための活動を活発化させている。

朝鮮総聯(れん)(注)は、28年2月、外為法違反事件に係る警察による朝鮮商工会館に対する強制捜査に関連し、機関誌への批判文の掲載等の抗議・けん制活動を行った。また、各種行事等に我が国の国会議員、著名人等を招待し、北朝鮮及び朝鮮総聯の活動に対する理解を得るとともに、支援等を行うよう働き掛けるなど、我が国の各界関係者に対して、諸工作を展開している。

警察では、北朝鮮による我が国における諸工作に関する情報収集・分析に努めるとともに、違法行為に対して厳正な取締りを行うこととしており、28年までに53件の北朝鮮関係の諜報事件を検挙している。 

  過去には大韓航空機爆破事件などの例は挙げられているが、あくまで外交を撹乱するテロ活動として捉えられているものであり、武装蜂起等は私が見た限り存在しなかった。

 

 さて、迫撃砲の話だ。出典としては、読売新聞の2007年1月19日版の記事に下記のような一行があったというだけだ。また保守派の歴史学者である中西輝政氏が言及していることでも知られる。

日本に長年潜入中の休眠工作員(スリーパー)もいる。政府関係者によると、阪神大震災の時、ある被災地の瓦礫(がれき)から、工作員のものと見られる迫撃砲などの武器が発見されたという。  

 この話が真実であると仮定するためには、下記のような条件が必要だ。

  • 工作員が大阪府に武器庫を作っていた(ちなみに大阪府の全壊家屋の大半は豊中市である)
  • 「瓦礫の下」とあるので、全壊したと考えられるが、その武器庫のある建物は木造、もしくは築年数の古い建物であった。瓦礫の下だから、おそらく地下室等に隠されていたわけでもないだろう。
  • その持ち主は逮捕されていないし、起訴されてもいないが、北朝鮮の工作員のものであるとは判明している。彼らはなぜか大事な大事な武器を放棄して逃げたか、迫撃砲とともに木造築50年の建物の下敷きになった。
  • 2007年以前に誰ひとりとして、どの新聞社も記事にしていない。
  • 被災した誰ひとりとして、あるいは救助に当たった人間ひとりとして、証言していない。誰一人正確に見たものはいない。
  • 武器押収も公式にはされていない。裁判所にも記録がない。

 もし本当にこれが起こっていたとしたら、日本政府は相当に超法規的措置を取ったことになる。よほど訓練された部隊だけで秘匿的に処理し、工作員も拘束したのであろう。

 もし本当にこのような秘匿任務が存在したとすれば、いかなる情報ソースであれ国家機密の漏洩にあたるはずだ。

 

 オウム真理教が地下鉄サリンを起こす2ヶ月ほど前だ。山一抗争の記憶も新しかった。誰か目撃すれば、まず最初にそちらを連想していたはずだ。

 いずれにせよ、なんら法的手続きを経ること無く、超法規的にこの件を処理したとすれば、北朝鮮を利する売国行為だと糾弾されてもやむを得ないだろう。

 折しも、震災当時は村山内閣だ。まず、三浦氏は北朝鮮によるこのようなテロ行為を避難し、また当時の村山政権に対して「なぜこのような重大なテロを超法規的措置に処理したのか」と、堂々と非難すべきではないか。

 

 さて。まあ、そんなことをわざわざ言う前に、普通の人間であればこの話が荒唐無稽であることは理解できるだろう。

 三浦氏は、手当たり次第、なんであれ自説の正当性を補強できる根拠を探して、今回の迫撃砲の話に行き着いたのではないか。

 問題は、少しでも頭を働かせればデマだとわかるこの話に、何ら知的リソースを割くこと無く付言した三浦氏の人間としての姿勢にある。

 あらゆることを無検証、無批判に垂れ流し、突っ込まれれば「私は公にできない情報ソースを持っている」と発言する。

 これは少なくともアカデミズムに関わる人間が取るべき姿勢ではない。科学とは、検証可能であることが最低条件である。

 

 残念ながら、三浦氏は、それが真実であろうとなかろうと、自身に有利なことであればまるで真実であるように発言する、という姿勢を取られていると断じざるを得ない。

 そして、彼女は「リアリズム」の名のもとに、いかに我々が危機的状況にあるかを語る。根拠もないままに。それは、研究者ではなく扇動家が取る姿勢だ。

 オオカミ少年は、何度も嘘をつき、やがて誰からも信じられなくなった。しかし、扇動家はそうではない。彼らは常に不安を煽り続け、人々を安心させないことによって、人を動かす。

 はっきり言おう。根拠のない言論で人々を不安にさせることで自らの影響力を高めようとするのは、人間として最も唾棄すべき姿勢である。私は、全人格をもってそのような人間を否定する。

 安全保障という極めて重要なテーマの中で、根拠不明の情報を語るのは、日本にとって有害でしか無い。

 

 この「震災の瓦礫の下に迫撃砲があった」などという馬鹿げた、誰が聞いても信憑性がない話を否定するのにも、時間がかかった。

 映画「否定と肯定」で書かれた、デボラ・リップシュタット教授は、TED Talkでこう語っている。

www.ted.com

 私たちには何ができるのか?

 まず始めに、もっともらしい見た目に だまされないこと。その下の中身に目を向ければ、過激主義が隠れているのです。

 そして次に「相対的な真実」など存在しないと、理解しなくてはなりません。

 3つ目に、私たちは「攻め」に回らねばなりません。「守り」ではいけません。

 誰かが 荒唐無稽な主張をしてきたら、相手が その国で 一番偉い立場の人だったとしても、世界一偉い人だったとしても、言わねばなりません。

「証拠はあるのか? 根拠は何なのか?」

 

 言質を問わねばなりません。彼らの嘘を、事実と同列に扱ってはいけません。

 我々は常に「証拠はあるのか? 根拠は何なのか?」と問うていかなくてはいけない。それに答えられない人間に、あらゆる意味で安全保障を語る資格など無いのだから。

三浦瑠麗氏の「スリーパーセル」発言に含まれた数々の矛盾について

三浦瑠麗氏がフジテレビ「ワイドナショー」で発言した「大阪に多数のスリーパーセルがいる」について、批判が集まっている。

 

三浦氏は、ハフィントンポストの取材に答えた上で、批判に応える記事をブログに上げている。

 

 冒頭申し上げておきたいのは、北朝鮮工作員は存在するということだ。

 例えば、西新井事件や新宿百人町事件、あるいは数々の拉致事件に、日本に在住する工作員・諜報員が関与していたことは自明である。

 諜報活動はどの国も行っている。イギリスの例で言うなら、諜報機関であるMI6の長官候補までなったキム・フィルビーが実はソ連のスパイであった、という例もあるわけで、当然日本の中にも諜報員が存在するであろう。

 防諜が国家の重要な責務であることも論をまたない。

 であるから、そこの点に関して、何も申し上げることはない。北朝鮮の工作員は存在し、その存在は日本にとって脅威である。それは論点ではない。

 

 問題は、三浦氏が番組で語った下記のような点である(太字は筆者)

三浦 もし、アメリカが北朝鮮に核を使ったら、アメリカは大丈夫でもわれわれは反撃されそうじゃないですか。実際に戦争が始まったら、テロリストが仮に金正恩さんが殺されても、スリーパーセルと言われて、もう指導者が死んだっていうのがわかったら、もう一切外部との連絡を断って都市で動き始める、スリーパーセルっていうのが活動すると言われているんですよ。

東野 普段眠っている、暗殺部隊みたいな?

三浦 テロリスト分子がいるわけですよ。それがソウルでも、東京でも、もちろん大阪でも。今ちょっと大阪やばいって言われていて。

松本 潜んでるってことですか?

三浦 潜んでます。というのは、いざと言うときに最後のバックアップなんですよ。

三浦 そうしたら、首都攻撃するよりかは、他の大都市が狙われる可能性もあるので、東京じゃないからっていうふうに安心はできない、というのがあるので、正直われわれとしては核だろうがなんだろうが、戦争してほしくないんですよ。アメリカに。  

 この発言に根拠はない。少なくとも、開示できる根拠はない。

 三浦氏は、安全保障の専門家の間では常識、と述べながら、公開されている情報では一切それらを示していない。ブログでも引用した公開情報は、デイリーメール(イギリスのタブロイド紙。Wikipediaですら出典に使えないほど信憑性が薄い。あとものすごく下品)の記事以外にゼロということになる。

 

 さて、三浦氏の発言には致命的な矛盾が沢山ある。例えば、三浦氏は、ハフィントンポストの取材に対して下記のように答えている。

一般的に、テロリストは都市部にこそ潜伏しやすいものです。また、アメリカの9.11テロのように第2の都市を攻撃対象として狙う可能性があります。いきなり首都への攻撃だと全面戦争を招きかねないからです。

つまり、そうした条件を考え合わせると、日本では大阪が危険ということになるわけです。しかも大阪は1980年代に、北朝鮮の工作員による拉致事件が起きたことがあります。

こうしたことから、東京だけが狙われていると安心しきってはいけない、むしろ大阪のような大都市こそが危ないということを伝えようとした発言でした。番組のMCの皆さんも大阪に縁のある人ですしね。 

 「そうした条件を考え合わせると」と言っている以上、「大阪やばい」は、アメリカの9.11テロなどを参考にした上で考えた、彼女の独自の見解であるということがわかる。

 つまり、「大阪やばいって言われていて」という発言には根拠がない。

 また、この発言と、テレビの発言は矛盾している。番組内では「実際に戦争が始まったら、テロリストが仮に金正恩さんが殺されても」と述べている。一方、ブログの中では「いきなり首都への攻撃だと全面戦争を招きかねない」と述べている。

 この二つは、どのように頭を捻っても論理的に整合し得ない。既に戦争が始まっていて、最高指導者が殺されたという段階に至って、なぜか首都である東京ではなく、大阪に破壊活動を行う理由は「全面戦争を招かないため」だそうだ。金正恩氏が殺されていながら、全面戦争になっていないというのはどういう状況だろうか。

 まず、ありえないことがわかるだろう。

 

 土地に浸透し密着し、有事まで事を起こさない諜報員は一般的に「スリーパーエージェント」と呼ばれる。

 彼らのように、日本に生活があり、根付いている人間が、北朝鮮が崩壊した後にわざわざ破壊工作を行う理由はなんだろうか。 更に言えば、なんでわざわざ金正恩が死んだ後に、首都機能のない都市を破壊しなければいけないのだろうか。

 仮にテロなどで都市機能が混乱したとしても、それで北朝鮮が戦争に勝つことはない。

 

 イスラム国などが扇動しているローンウルフ型のテロは、明確な理由を持っている。それは、自らの力を誇示し、国外の協力者をイスラム国に惹きつけることだ。

 しかし、北朝鮮が戦争に突入し、金正恩が殺される、つまり北朝鮮が国家として崩壊した後に、わざわざ工作員が破壊活動を行う理由があるだろうか。

 大日本帝国の例を引くまでもなく、その段階で必要なのは終戦工作である。あるいは、外構ルートを通じた政府高官の脱出だろう。破壊工作なんかやっては益々こじれるばかりでなんの益も無い。

 よしんば、祖国に殉ずるためにテロを行うにせよ(こういう言い方が正しいとは思わない。もちろんテロは間違った行為である。強調しておく)、首都東京、霞が関など国家機関を狙うほうがよほど効果的である。あるいは、原発かもしれない。なにせ、「全面戦争を避ける」必要など無いのだ。大阪は大都市ではあるが、首都機能があるわけではない。

 

 日本国内に工作員がいるということは事実だとしても、彼らが金正恩が殺された際に大阪でテロ活動を行う指令を既に受けている、ということがあるだろうか。

 例えば、平壌放送は時々乱数放送を行っており、かつて工作員への指令に使われていたと言われている(諸説あるが)。

 現在でも、通常工作員や諜報員には何らかの形で接触せずに本国からの指令を出す手段がある。 

 そのような段階で、最高指導者が死に、指揮命令系統が隔絶されたあとは破壊工作をせよ、などと取り決めをする意味があるだろうか?

 前述の通り、終戦工作をしているときに勝手にテロなんかされては北朝鮮にとってもいい迷惑なのだ。

 よしんば取り決めがあったにせよ、それが外部に漏れるとも考えづらい。

 仮に公安が何らかの形でそれを掴み、うっかり三浦氏に漏らして、それを三浦氏がメディアで話していたとすると、むしろ国家機密や国家の情報コントロールに関わる問題である。

 

 問題は、北朝鮮の工作員がいるという点は事実であるにせよ、それ以外の全ては三浦氏の推測と想像に立脚しているということだ。

「大阪がやばい」「本国と断絶されても、最高指導者が死んでも破壊工作を行う」「繁華街が狙われる」

 これらの発言が三浦氏の想像にすぎないことは示してきた。専門家が根拠なき発言で危機を煽ることは有害であり危険だ。

 

 しかし、三浦氏は、ブログの釈明で論点をすり替えている。例えば下記のような点である。

 同様に、スリーパー・セルが日本に存在することとも、向き合わないといけないのです。

 テロリストがいると思えば、当然テロ捜査をしなければいけないわけで、その過程を通じて、テロリストがいない社会よりも人権保護に関する懸念が生じうることは確かでしょう。だからこそ、安全だけでなく人権保護の観点をバランスさせながら重視していく必要があります。

 何度も繰り返して言うが、日本国内に北朝鮮工作員が存在することを否定はしていない。彼らは拉致問題などに深く関与していたし、日本の安全保障を脅かしている。

 問題は、地域を特定して危険を煽ったことにある。また、その影響に対しても充分自覚的であることだろう。

 彼女はハフィントンポストの取材に対し、下記のように答えている。

また、在日コリアンに対する差別や偏見を助長するというTwitterの反応についても、私は番組中、在日コリアンがテロリストだなんて言っていません。逆にそういう見方を思いついてしまう人こそ差別主義者だと思います。 

 大阪がやばい、というのは彼女独自の見解だ。三浦氏の発言をもとに在日韓国人朝鮮人に対して攻撃的な発言を加える例はすでにある。

 わざわざ独自の見解を引っ張り出してきてまで、東京ではなく「大阪がやばい」と発言したことに意図がなかったというのは、考えづらい。

 もし仮に無自覚であったとしても、これが有害な発言であることに気が付かなかったとすれば、メディアに出る人間として極めて危険である。

 関東大震災の際に起きた朝鮮人虐殺を思い出した、とTwitterで発言した人も多くいた。この発言がどのような意図を持ったものであれ、「大阪に北朝鮮のテロリストがいる」とメディアで発言することの意味を、理解出来ないほど彼女に知性が欠けているとは思えない。

 

 三浦氏は、デイリーメール以外に、発言の根拠を明確に示すべきである。それが出来ないのであれば、専門家を名乗る資格はない。

 逆の視点で考えてみよう。もし本当に三浦氏が我々の知り得ない非公開の重大情報を持っていて、それをテレビで発言していたとしよう。

 三浦氏は、安倍総理とも食事をされる仲である。そのような人物と我が国の最高責任者が秘密裏に会合しているのは国家にとって重大な危機だろう。

 それよりはまだ、三浦氏は根拠なく発言したとしたほうが、日本にとってはいいのではないだろうか。 

 無論、いずれの場合にせよ、三浦氏がメディアで語る資格を持たないというのが、私の結論ではあるが。

宰相・安倍晋三の本質 ― 意思のない総理と、忖度を生む「権力装置」

森友・加計問題の本質的な問題点

「野党はモリカケばかり」という言葉が、政権に対して寛容な方々に寄って発言されている。折しも、北朝鮮からミサイルが発射されたことも有り、この言葉はホットだ。

 しかし、森友・加計の問題は、国家的に重要な問題である、と何度もいい続けなければならない。

 それは、汚職や不正が起こることではなく、その汚職や不正に対して誰も謝罪しないこと、全く記録が出てこないばかりか、多くの重要な記録が破棄されていること、あまつさえ、過去の発言が書き換えられているということだ。

 記録を全て破棄して、過去の発言の解釈を書き換えれば、誰も責任を取る必要はない。誰も辞める必要はない。誰も傷つかずに済む。しかし、このような姿勢は将来に大きな禍根を残すばかりでなく、現在行われている施策の成否を確かめることもできない。

情報隠蔽の恐ろしさは、先の大戦において正確な分析が握りつぶされ開戦してしまったことや、大本営によって事実を捻じ曲げられ、いたずらに終戦を引き伸ばしたことからも明らかだ。

 自衛隊の日報問題と合わせ、この国の情報公開が危機に瀕することは、アジア情勢が緊迫する今こそ重大な問題だ。 

 しかし、その点は今回述べるつもりはない。今回のテーマは、安倍総理の異質さについてだ。

意思のない宰相

 森友問題や加計問題について、安倍首相は度々「私が直接支持したことはない」と述べている。もちろん、責任逃れと感じる人もいるだろう。

 しかし、私はこう考えている。安倍首相は本当に主体的に関わっていない。だからこそ責任を感じておらず、単に自分は利用されただけと感じているのではないか。

 

 ジャーナリストの青木理氏が書かれた「安倍三代」には、このような安倍晋三評がある。

「こんなにいい子がいるのかっていうくらい行儀がいい」と評された晋太郎の息子、晋三。おそらくはそのとおりなのだろうと私も推測する。

仮面の下に別の顔を持つ狡猾な策士でもなければ、権謀術数に長けた生来の悪人でもない、むしろ凡庸にすぎるほど育ちの良い3世のおぼっちゃま。

極端な善や悪などとまっすぐ無縁にすくすくと育ったつくしん坊。

 安倍首相を評する時、私は「意思なき宰相」あるいは「言葉のない宰相」という言葉が浮かぶ。安倍晋三総理大臣は、戦後歴代三位の在職日数を誇る。安倍首相が、吉田茂や中曽根康弘、あるいは小泉純一郎のように、毀誉褒貶がありながらも強いパーソナリティを持った人物と比べられるだろうか。

 森友・加計学園の問題についても同じだ。安倍昭恵氏、籠池氏、加計孝太郎氏には、それぞれ意図が見える。それが教育者の視点なのか、あるいはビジネスマンとしての視点なのかはわからない。

 しかし、安倍首相にそれらの意図は見えない。国会から見えてくるのは「私に責任はない」という姿勢だけだ。まるで、知らないうちに犯罪に巻き込まれてしまった一般市民のように、「証拠はない」と繰り返している。

誰が法を殺したか?

 加計学園問題にせよ、森友学園問題にせよ、あるいは安保法制や共謀罪などについても、また今回の解散についても、安倍政権は極めてテクニカルに法の抜け穴を突き続けている印象がある。

 このような論評もある。

55年体制下で最もシステムをハックしていたのが竹下登だったとすると、現体制で最もハックできているのが安倍晋三なのかもしれない。(ただ竹下のシステムハックはかなり意識的だったとしても、安倍のシステムハックは自覚的ではないかもしれない。) 

  通常、こういった法の抜け穴を付くやり方は、極めて強い意図を持ってなされるものだ。しかし、先般述べた通り、安倍首相にそれほどの強い意図があるように、私は感じていない。

 首相は利用されただけ。そうなのかもしれない。首相の「ご意向」「後ろ盾」を使うために、様々な人が知恵を凝らして、法の抜け穴をつき、そして発覚した後も首相は自分自身の責任を感じていないのかもしれない。

 つまり、首相自身は主体的な人間として関わっていたのではなく、あくまで「装置」として、籠池理事長や加計孝太郎氏の野望を実現するためにそこに存在していただけなのではないだろうか。

芦部を知らない改憲派

「私は憲法学の権威でもございませんし、学生だったこともございませんので、存じ上げておりません」

  かつて、安倍首相は「安倍総理、芦部信喜という憲法学者を御存知ですか?」という質問に答えてこういった。

 言うまでもなく、芦部信喜氏は法学部の学生なら知らないはずがない名前であるし、日本の憲法議論を戦後常に先導し続けてきた以上、憲法論議に関心がある人間なら知っている名前だ。

つまり、安倍首相は、安倍首相は、自らの頭で考え、憲法の矛盾に対し葛藤したことはない。そして、おそらくは、憲法について学ぶ情熱や、意思を持っていない、ということになる。

 とすると、一体、なぜ改憲をしたいと考えたのだろうか?

 安倍首相は、政治家になるため神戸製鋼を退職する際、「自分も何億の仕事をしているんだ」と反発したという。しかし、最終的に彼は自分の運命に抗うことができなかった。

 今も、それは変わっていないのではないだろうか?

 

 今も、安倍首相は、自分の意志ではなく、一種運命的な役割を背負い、「保守派」の期待に応え、そして友人や親類の頼みに応え続けているだけなのではないか? 

 安倍首相は、加計学園の獣医学部や、森友学園の幼稚園が本当に日本をリードする教育機関になるかということも考えない。自らの意思を持ってそれらを創り上げようとしてわけではない。

 だからこそ、自分に責任はない、と首相は考えているのだろう。「利用されただけ」と彼は言う。それはおそらく間違いではない。

 安倍首相の存在とは、権力装置としての総理大臣を利用したい人にとって、極めて都合がいいのではないか。

 

 洗いざらいをぶちまけた籠池氏は収監され、今も接見禁止だ。一方、加計孝太郎氏は一度もメディアに姿を表さず、獣医学部は認可された。

 そして、安倍首相は今日も自分の責任を否定し続けている。保守的・タカ派の総理大臣の役を演じながら。

 

 しかし、この国のリーダーに責任が無いとすれば、一体、誰がこの責任を取るのだろうか?

会計検査院、森友学園における根拠不十分な値引きを指摘

学校法人・森友学園(大阪市)への国有地の売却経緯を調べた会計検査院は22日、国が売却契約時に推計した地中のごみの量を独自に試算した結果、最大で約7割減ることなどを指摘した調査内容を国会に報告した。ごみの量は8億2千万円の値引きの根拠となっており、売却価格の妥当性が問われることになる。

一方、契約に至るまでの資料の一部が廃棄されるなどで、価格決定の詳しい経緯が確認できなかったという。国の財産処分が適切に行われたかどうかが検証できない状態で、「適正」としてきた政府の姿勢が厳しく問われそうだ。 

大阪府豊中市の国有地がごみ撤去費用として8億円を差し引いて学校法人「森友学園」に売却された問題で、会計検査院は22日、ごみ処分量の推計根拠などが定かでないなど売却額がずさんに算定され「慎重な調査検討を欠いた」とする検査結果報告を参議院に提出するとともに公表した。

大阪の学校法人「森友学園」に国有地がごみの撤去費用などとして8億円余り値引きされて売却された問題で、会計検査院は「値引き額の算定方法には十分な根拠が確認できない」などとする検査結果を国会に提出しました。

 


 

 

議員の反応など

 

代表質問でも取り上げられた

 

国対ヒアリング

www.youtube.com

 

森友学園問題とはなんだったのか?(あるいは何であるのか)

今回の問題において、はじめに注目されたのは、土地の売買そのものの疑惑だった。

全ての権限をもってあらゆる会計をチェックする会計検査院が、充分に書類を確認し、取引が適切だったのか不適切だったのかを確認すらできないこと。

これが、問題であり、そしてこの問題は、国家的な危機と言ってもいい。

 

この問題は、

  • なんでこんなに値引きされているの?【取引自体の適性】
  • そもそも何で認可されたの?【認可の適性】
  • 安倍昭恵夫人が関与しているの?【政府のガバナンス】
  • なんで証拠が残っていないの?【公文書の取扱】

というような流れで派生している。

不適切な取引を隠蔽する、という目的に沿って屋上屋に重ねていった結果、政府は一年未満の文章を破棄するという国家的暴挙に出てしまったことが問題なのだ。

 

私の記事に対しても「証拠がないじゃないか」という反応が多数あった。

 

証拠がないこと。白黒が付けられないこと。本当にその取引が正しかったのか、検証しようがないこと。これが最も恐ろしい国家の崩壊だ。

会計検査院ですら「もしかすると不適切かもしれないけど、証拠がないからわかりません」という態度を取らざるをえないこと、これほど恐ろしいことがあるのだろうか。

 

もし党が過去に手出ししてその出来事を操作すれば、それは起きていないことになってしまうのだ。これこそ単なる拷問や死刑よりも恐ろしいことなのではないだろうか? 

 

一九八四年 - ジョージ・オーウェル

一九八四年 (ハヤカワepi文庫)

一九八四年 (ハヤカワepi文庫)

 

 

最後に

籠池夫妻は、未だ接見禁止のまま勾留されている。先進国ではありえないことだ。逮捕の目的は、逃亡や証拠隠滅が可能だからだ。証拠隠滅するのは彼らではないだろう。

立憲民主党のマーケティングから見る、市民参加政治の可能性と課題

選挙が終わった。そしてまた新たな日が始まる。政治は片時も終わることはない。

今回は、立憲民主党の躍進から、日本と海外の政党のインターネット上でのマーケティングの違いなどを見ていき、今後の立憲民主党の可能性について考えていきたい。 

ネット選挙の歴史と野党 

日本の政党のデジタル化は、欧米圏に比べて極端に遅れている。2008年の大統領選挙でオバマは既にインターネットをフル活用していたころ、まだ日本では公職選挙法の問題でいわゆる「ネット選挙」が禁じられていた。

その後、自民党も、2011年にはJ-NSC(自民党ネットサポーターズクラブ)を立ち上げ、2013年には公職選挙法が改正される。

しかし、野党陣営の動きはその後も鈍かった。

旧民主党は例えば生放送での事業仕分けの中継や、幹部会見の動画配信などは先進的に行っていたが、インターネットでは酷評続きで、民進党のYouTubeの登録者数は共産党よりも少なかった。 

かつて、民主党関連のイベントで司会を努めた西田氏はこのように述べている。

民進党になった後も、 たびたび Twitter が炎上するなど、ネット関連のセンスの無さは際立っていた。

民主くんは頑張っていたのだけど。

日米英の政党ウェブサイトの比較

さて、いったい日本と欧米圏で、インターネットへの関わり方はどのように違うのだろうか。それは、政党のサイトを実際にご覧頂ければすぐにわかる。

労働党(イギリス)

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労働党のサイトを見ると、

  • Join Labour(党員募集)
  • Take Action(ボランティア)
  • Donate(寄付)

という3つのアクションを右上のヘッダーでビビットに目立たせている。さらに、トップページにフォームを埋め込んであり、遷移させること無くメールアドレスだけでも獲得しようという強い意気込みが見える。

政策などはファーストビューに一切存在しない。

民主党(アメリカ)

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民主党のサイトはさらにシンプルだ。右上に赤いCTA(コール・トゥー・アクション)の「Donate(寄付)」の文字があり、それ以外のボタンは中央の「ボランティア」しかない。

そして、労働党と同じく、ファーストビューの下部にメール購読のためのフォームが埋め込んである。こちらのファーストビューにも一切政策などは乗っていない。 

日本の政党Webサイトの特徴

対して、我が国の政党のWebサイトは、どれも情報量が異常なほど多く、ごちゃごちゃしている。

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政権政党である自民党はまあ仕方ないにしても、民進党のサイトはかなり見づらい。特に問題なのは、「何をすればいいのか」が全く明確でないことだ。

欧米圏にくらべ、ユーザーの行動に大して期待している導線が見えない。さりとて、メディアのように回遊性の高いWebサイトとも言い難い。

KPI設計の重要性

政党が支持者や有権者に望むことはそれほど多くない。極論すれば、選挙の時以外にユーザーに望むことは、この4つになる。

  • 寄付
  • 党員サポーター
  • ボランティア
  • メールアドレス(電話番号)登録

PV数などが目標数値になるべきではなく、この4つの指標をきちっと計測することこそ、PDCAサイクルを回すために必要なことだ。

だからこそ、欧米圏のWebサイトは、市民が政党に対してコミットすることを目標に設計されている。献金やボランティアが一定程度文化として根付いていることとも無関係ではないだろう。

日本の野党は、選挙運動は連合頼み、個人献金は集まらないから政党助成金目当ての離合集散が起きて有権者に呆れられる。こんなことを繰り返していれば、投票率も下がるだろう。

文化的な違い等もあるだろうが、政党のマーケティング力の違いという側面も大いにあるはずだ。

立憲民主党のWebサイト

さて、そこで、今回躍進した立憲民主党のWebサイトを見てみよう。その他の政党と、なにが違ったのだろうか。

立憲民主党の Webサイトで興味深いのは、「参加」という導線が非常に明確に明示されていたことだ。

選挙中の特設サイト

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今回の立憲民主党に関しては、「みんなで選挙に参加しよう」という目的をわかりやすく説明するためのデザインがしっかりと実装されていた。これこそ「市民参加型」の政党として、最も大切なことだ。

個人献金

また、立憲民主党には個人献金が短期間でかなり集まっていた。これも、寄付のボタンがファーストビューにしっかり大きく貼られていたことと無関係ではないだろう。

まあ、10年も前にオバマ大統領は何万回ものA/Bテストを行って莫大な個人献金を集めているわけで、まだまだ道のりは遠い。

立憲民主党の Twitter 

Twitter の運用に関しても、立憲民主党は分かりやすかった。このクリエイティブのように、場所と時間をしっかり画像で明示することで、演説会への動員のハードルを下げた。

画像一枚で「何をすべきか」まではっきりわかる。これが重要だ。 

フォロワー数がいくら増えたところで、大して意味はない。ネット上の人気が投票行動に結びつかないことは明らかだ。

しかし、今回は違った。マーケティングの担当者が、そのフォロワーをしっかりメディアバリューのある行動(ボランティア、演説会への動員など)へと結びつけることで、新聞、テレビなどでも大きく取り上げられた。

これが、今までの政党における運用と大きく違った点だ。フォロワーだけでは意味が無いことを十分承知していたのだ。

市民運動からの学び

これは、市民運動のノウハウだろう。

SEALDs や市民連合などは度々批判にあう。私も批判的に見ている部分がある。しかし、少なくともインターネット上で人を巻き込むということに関して、彼らが日本の政党より遥かに洗練された活動を行ってきたことも事実だ。

というより、それほど日本の政党が旧態依然として遅れていたということだろう。一市民団体のWebサイトよりも、何億も政党助成金をもらっている政党のWebサイトのほうが見づらいのはどういうことなのか。 

提案 : 地域主権型の政党のために

立憲民主党の課題は、中央政治(国政)だけではなく、地域の政治に対してコミットできる市民を増やすことではないか。国政はお祭りだが、地方の選挙に対する関心度は遥かに低い。

しかし、衆院選挙も参院選挙も数年に一回だが、地方の選挙は、県議選や市議選、知事・市長などを含めると毎年何かしらの選挙があるのだ。

国政になっていきなり盛り上がる、というのはやはり健全ではない。

地方の選挙できちんと市民を巻き込むことが出来れば、日本の政治に新しい流れを持ち込むことが出来るはずだ。

「ナーチャリング」という概念

マーケティング用語で「ナーチャリング」「リードナーチャリング」と呼ばれる手法がある。これは、例えばメールマガジンに登録したユーザーなどを徐々に見込み顧客に育てていくことを指す。

日本の政治においても、ナーチャリングが必要ではないか。例えば、立憲民主党のWebサイトには候補者の電話番号が乗っているが、いきなり政治家の事務所に電話するというのは相当にハードルが高い。

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だからこそ、よりハードルの低いコミットの仕方を用意し、そこから少しずつボランティアやイベントへの動員などに誘導していく必要がある。

今だからこそメールマーケティングの活用を

アメリカ民主党やイギリス労働党などのWebサイトには、メールを登録するフォームがファーストビューに設置されている。

メールアドレスと郵便番号が分かれば、その地区の候補者からの情報を送ることが出来るからだ。

例えば、党本部のWebサイトにフォームを載せて、支持層をリスト化し、定期的にその地区の県議や市議、代議士などのメッセージを送信するのはどうだろう。

いきなり電話するのは難しくても、メールくらいなら…という方は多くいらっしゃるはずだ。

東京都新宿区に住んでいるとすると、参議院選挙、衆議院の東京一区、都議選の新宿選挙区、都知事選、そして区議選に区長選と、政党としてそれぞれ応援する候補がいるはずだ。それらの候補がバラバラにメールマガジンを発行しているだけなのはもったいない。

メールだけでも獲得しておけば、地方の選挙などに有権者を巻き込むことが出来、関心を高めることが出来る。そして、長期的には党員やボランティアなどに育ってくれるかもしれない。

Webサイト、こんな風なら?

例えば下記のようにフォームを設置し、メールだけの登録者を増やしていくのはどうだろう(ついでに、ヘッダーのボタンの数を減らしてみた)。 

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今回の選挙では、半分以上の方が台風の影響もある中で投票している。政治への関心はある程度あっても、どうしていいかわからないという方も多いはずだ。

政治不信が叫ばれる今だからこそ、有権者を育て、政治に対して関わる機会を作る義務が、政党にはあるのではないだろうか。

Barack Obama | Candidates at Google - YouTube

これは、まだオバマが上院議員だった頃にGoogleで行なった講演だ。これを聞いて、ある Google 社員が辞めてキャンペーンに関わり、あれほど歴史を変える結果をもたらした、とどこかで見た記憶がある。

テクノロジーはもちろん素晴らしい。しかし、そのテクノロジーを動かす人を動かすのもまた、ヴィジョンや夢、そして言葉の力であることを私は信じている。

余談

疲れた時は社民党宮城県連のホームページを見よう。

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